研究概要(1)
1. 背景
ホタン地区ニヤ北方のイマーム・ジャーファル・サーディク廟
1-1国内外の研究動向と問題の所在
新疆を包含する中央ユーラシア地域において、一般に「マザールmazar」と呼ばれるイスラーム聖地は、イスラーム聖者を崇拝の対象とするイスラーム信仰的要素と、病気治癒や子授けなど、現世利益の追求を軸とする民衆信仰的要素とを併せ持つ複合的な性格を有する施設として、ながく地域住民の精神的拠り所として機能してきた。同時にマザールは、巡礼や参詣の対象として、狭いコミュニティーを越えた広域的な人的交流の結節点として、社会的にも重要な役割を果たしてきた。こうした重要性は現地新疆を含め近年内外で注目され、代表的な研究としては、新免康ほか著『新疆ウイグルのバザールとマザール』(東京:東京外国語大学、2002年);熱依拉・達吾堤(Rahile Dawut)『维吾尔族麻扎文化研究』(烏魯木斉:新疆大学出版社、2001年)そして学術誌Journal of the History of Sufism所載の一連の論考(特に第3集Saints and Heroes on the Silk Road)などが知られている。また2005年と2008年には東京と新疆のウルムチ市で新疆および中央アジアのマザールに関する国際学術会議が開催され、その成果論集もそれぞれ刊行が予定されている。
しかしながら、それらの研究は依然として個別マザールの研究を出るものではなく、新疆に数百座は存在するといわれる参詣地としてのマザールが、総体としてはどのような文化的特徴(地域性)をもち、歴史上いかなる役割を果たしているのかという総体的評価の問題、さらにはそれをふまえた他地域のマザールとの比較、果ては人間の参詣行為というプリミティヴな分析軸からの文化的な位置づけの問題などは依然として等閑に付されているといってよい。畢竟、そうした問題は限定されたマザールの事例から演繹的に導き出しうるものでは到底無く、新疆の可能な限り多くのマザールにひとしく目を配り、包括的かつ計量的な手法でマザールの基礎情報を集積した上で帰納的に分析が加えられなければならないものだからである。本研究は、このような前提に立ち、新疆のマザールに対する包括的かつ計量的アプローチを可能とする基盤の構築、すなわち網羅的にマザールの基本情報を総合した『便覧』の編纂を第一の目的に置く。

カシュガル地区ヨプルガのアホンルクム廟周辺の墓群
1-2 研究経緯
当プロジェクトの研究代表者菅原は1999年に発表した小論「創出される『ウイグル民族文化』:『ウイグル古典文学』の復興と墓廟の『発見』」(『アジア遊学』 第一号所収)以降、新疆のマザールの歴史的、文化的機能に注目し研究を推進してきた。マザールを主たる調査対象とする現地調査は1999年いらい数次にわたり、いくつかの報告を出版している。また2006年から3年間にわたり、トヨタ財団の助成による国際共同研究プロジェクト「新疆・フェルガナ両地域におけるマザール文書の調査・集成・研究」の代表者として、マザール所在の古文書(「マザール文書」)の収集、研究を中心とする調査研究活動に従事した。さらにその活動の締めくくりとして2008年8月にはウルムチの新疆大学で国際学術会議Studies on the Mazar Cultures of the Silk Roadをオーガナイザとして組織し、現在はその成果論集の編集にあたっている。これらのなかで特に多様なディシプリンによるマザール研究者が結集した国際学術会議の開催は、それ自体がマザール研究の今後の発展性を示しえたという意味で意義深いものではあったが、同時にそうした多様性に満ちた研究成果をいかに束ね、知見として共有していくかと言う問題を浮き彫りにするものでもあった。今般の『便覧』編纂は、個別のマザールを見出しとする情報の集積を通じて研究成果を含む各種情報の共有化を実現させ、新疆のマザール研究をより普遍的な知の営みへ昇華させるための試みだとも言える。