所  載 『東洋学報』 第86巻 第2号(2004年9月)、129-137頁。
HTML版公開 2008年11月14日
最終更新 2008年11月14日

付記

本書のもととなった著者キム・ホドン教授の学位論文を読んだのは確か修士課程に入った頃ではなかったかと思う。長い長い英語の論文を通しで読んだのはそれが初めてだったが、内容は大変刺激的で時間を忘れて貪り読んだ。ただ読んだだけではもったいなく思われ、当時青山学院に出講されていた池田温先生への宿題レポートにその簡単なレヴュウを提出したところ、池田先生から「これを『東洋学報』にでも投稿してはどうですか」と親切なご助言をいただいた(今にしてみれば、それは冗談だったのかもしれない)。しかし学位論文の書評、というのは何となくしっくりいかない感じがしたし、何よりこんな高度な大論文を自分は十分に理解できていないし恐れ多いと感じていたので、その書評が世に出ることはなかった。

その後、1995年ウルムチ留学中にキム教授と劇的な出会いをし、また翌年には図らずも野尻湖クリルタイで再会を果たし、そのなかでその学位論文がそのうち出版予定であることをご自身から伺った。それから数年がたち、まず韓国語版が出版され(こちらはキム教授から恵贈を受けた)、ついで2003年になりついに本書が出版されたのであった。この書評でもふれたように、学位論文から本書の出版まで15年ほど時間が経過している。その間、多忙のなか学位論文の負債(?)に取り組み続けられたキム教授のご苦労はいかほどのものであったろうか。一方私は私で著者ほどではもちろんないにしても、ずいぶん長く「書評」のことが心のどこかに引っかかっていたのであろう。本書がついに出版されると知ったとき、これをいち早く読んで、書評を書こう、『東洋学報』に出そう、と即座に思い立ったのは単なる思い付きではなく、池田先生の何気ないお言葉と、私自身の本書への思い入れが確かに蓄えられていたからだと思うのである。ここで池田先生には本当に今さらではあるが感謝申し上げたいと思う。

紹介と批評 


キム・ホドン著

中 国 の 聖 戦

―中国領中央アジアにおけるムスリム反乱と国家(一八六四―一八七七)―

 

「中国領中央アジア」すなわち新疆(現在の中国新疆ウイグル自治区。南部の東トルキスタンと北部のジュンガリアを中心とする)地域の歴史において、一八六四年のクチャ蜂起を端緒とする新疆ムスリム反乱からヤークーブ・ベグ政権期にいたる「動乱期」と、つづく新疆省の成立(一八八四年)にいたる前後の時期が、今日の当地域の状況を読み解く上できわめて重要な意味を有していることは、今更述べ立てるまでも無いことであろう。かつて濱田正美氏が明快に指摘したように、辺境であった当地はこの時期を境として「ヨーロッパ植民地主義との本格的遭遇」を経験し、中国の一部としての地域的・政治的枠組みを確定し、今日の状況に直結する人文的環境をもつに至ったのである[一]


この時期の大部分をなす「動乱期」についてはかつて濱田氏そして新免康氏をはじめ複数の研究者が論稿を発表され[二]、私自身もクチャ政権の遠征活動について粗略な考察を行ったことがある[三]。しかしながら、この時期全体を俯瞰したモノグラフは、本書カバーの献辞でミルワード(James Millward)が指摘するように、この一世紀誰ひとり手がけることが無かった。このような状況で、このほど満を持して出版されたのが本書『中国の聖戦』である。


著者のキム・ホドン(金浩東Kim Hodong)は一九五四年生まれ。米国ハーバード大学で故ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher)の薫陶を受け、現在はソウル大学校の教授として、韓国の中央アジア史学を率いる気鋭の研究者である。本書の下敷きとなった著者の博士学位申請論文『中国領中央アジアにおけるムスリム反乱とカシュガル・アミール国家』(The Muslim Rebellion and the Kashghar Emirate in Chinese Central Asia. 1864-1877. Ph.D thesis, Harvard University, May 1986.)は八十年代の終わりより当地域研究者の間でコピーが回覧され広く読まれており、その増補改訂版である本書の公刊は、まさに「全ての専門研究者によって歓迎されうる」ものとして長く待望されていたものである[四]。「満を持して」と私が言い表したのはそういう事情を踏まえてのことであり、献辞でもペルデュ(Peter Perdue)が同様の所感を表明しているけれども、これは本書の刊行をみて、著者を知る研究者すべてが共に感じえた感慨であったろうと確信する。


以下、まず本書の要旨を紹介する。


はじめに、新疆の地理的、歴史的背景が示される。モンゴル侵入以後の当地域を扱った歴史研究が他の地域に比べ不十分であること、その理由としては史料の不足に加え、当地域が「シルクロード」の衰退によりユーラシアの「動的要素」であることを停止した、と言う思い込みに基づく関心の薄さによることを指摘する。ついで本書が扱う「動乱期」が、当地にとっては史上初めて独立国家のもと住民が統合され、その経験が住民のなかに民族主義と歴史意識の醸成とをもたらしたこと、また同時に中国にとっては今日の領域概念を形成する契機となったという点において歴史的に重要であることを強調する。つづいて当テーマの研究史が概観される。従来この「動乱期」に関しては中国・ソ連(当時)の研究者たちにより注目され、現地史料を用いた研究が少なからず著わされた。しかしそれらは概ね両国の政治的立場を色濃く反映しており、当事者である新疆住民に対する視点が決定的に欠けていた。それゆえ当事者が書きあらわした現地史料を駆使し、史料にひそむ当事者たちの「メッセージ」に耳を傾け、彼らを主体に置く叙述を試みるべきだという、本研究の基本方針が打ち出される。つづけて『ターリーヒ・アムニーヤ』などの代表的なムスリム側の史料および清朝史料、欧文史料の紹介がなされる。各章の内容が概観され、最後にこれら膨大な史料・文献の諸情報を統合・分析することによって、将来のより詳細な研究に対する基礎を提供できるような総合的な記述を提示しようという本書の大枠の目的が示される。


第一章 背景

本書の扱う諸事件の発端である一八六四年新疆ムスリム反乱の原因が検討される。まず反乱のさきがけとなったクチャ蜂起の経過が詳述され、その直接的な原因が検討される。クチャ蜂起をはじめ新疆各地で勃発した蜂起は、当時清朝駐留軍の一翼を担っていたトゥンガン(西北回民)の蜂起を緒とし、それに主体住民であるテュルク系ムスリムの参加を見て拡大した。著者はトゥンガン蜂起を促した最大の要因として中国内地からもたらされた流言を指摘し、陝西・甘粛の反乱におけるトゥンガン殺戮の報が新疆にもたらされ、それが「清朝皇帝によるトゥンガン殺戮の勅令」など根拠の無い流言、更にはローカル・レヴェルでのトゥンガンの武装解除の試みや現実の殺戮へと発展した事情を明らかし、それがクチャ等でのトゥンガンの突発的な蜂起の直接的な引き金になったとする[五]


続いて当反乱の間接的な原因が検討される。十八世紀中葉以来の清朝の新疆統治政策が検討され、その間接統治体制の限界(中央からの協餉の断絶とその補填のための増税、ベグと清朝官吏双方からの過酷な搾取を促した二重構造)、カーシュガル・ホージャ家の失地回復運動を利用したコーカンド・ハン国の数次の干渉による当地域の安定の阻害などがまず指摘される。コーカンドの干渉に対し清朝は一八三二年にコーカンドと条約を締結し、カシュガル地方における課税権等の特権を賦与する事で地域の安定を図ったが、その後清朝、コーカンドともにそれぞれの国内事情により新疆への影響力を弱めるに至った。著者はこうした事情に鑑みて、反乱前夜の一八五〇年代には当地の統治体制がほぼ破綻していたものと結論する。


第二章 新疆蜂起

一八六四年六月のクチャ蜂起を皮切りに、ウルムチ、ヤルカンド、カシュガル、ホタン、イリなどで次々と発生した各蜂起の具体的状況と経過が個別に検討される。これら蜂起は突発的に発生したもので、各都市の蜂起勢力は相互の協力関係も連絡も有してはおらず、それゆえにクチャ・ホジャの遠征活動に顕著に見出されるような深刻な闘争が地域間、あるいは地域内部で展開されることとなった。著者は、この混乱状況で各勢力が一義的にはそれぞれ異なった動機を有していた一方で、イスラームの信仰を共有し、異教徒の支配者である中国への「聖戦」と言う行動に出た点で共通した特徴を見出すことが可能であること、それが各政権が個別の事情に差異があったとはいえ宗教人士を蜂起指導者とせざるを得なかった理由であったとする。この新疆蜂起で成立した諸勢力は結局闘争に終始し、当地統一のタスクは次の段階で外部から到来したヤークーブ・ベグにより達成されることとなる。


第三章 ヤークーブ・ベグ政権の出現

コーカンドから到来した外来者であるヤークーブ・ベグが当地域の統一指導者・独立国家の創設者となるまでの歩みが詳述される。まず従来少なからぬ現地史料や西欧文献で描かれ続けた「伝説的な英雄」や「内陸アジアの冒険者」としてのヤークーブ・ベグ像にメスが入れられ、出自、履歴の検討を通じてその人物像の虚実が明らかにされる。実際のヤークーブ・ベグが下級官吏から身を起こし、数名の有力者やハンに仕え堅実にキャリアを積み上げていった人物であったこと、カシュガル方面への到来も当時のコーカンドの実質的な支配者モッラー・アーリム・クルのコントロール下にあり、ヤークーブ・ベグの立場がコーカンド・ハン国の伝統的な東トルキスタン政策の執行者、いわば「道具」としての範囲を出るものではなかったことなどが明らかにされる。


続いて「転機」としての一八六五年半ばのモッラー・アーリム・クルの死、コーカンドの新しい支配者フダヤールと袂を分かった七千人に及ぶコーカンド人亡命者たち(大半は軍人)の合流を見てヤークーブ・ベグが独自の道を歩み始め、一八七二年には全東トルキスタンとウルムチ地区を統一するに至る過程が述べられる。


第四章 ムスリム国家とその統治機構

ヤークーブ・ベグの「新国家」の統治構造が検討される。すなわち、ヤークーブ・ベグの権力基盤、行政・軍事機構、社会・宗教政策そして徴税システムが個別に検討される。前述の如くヤークーブ・ベグは外来者であり、血統的な正統性も宗教的な権威も有してはいなかったこと、そういったカリスマの欠如を補うために政権の各レヴェルのコーカンド人のモノポリー、およびヤークーブ・ベグ個人への権力の集中が強く推進された事情が示される。地方行政区の長であるハーキム、経済官僚はおおむねヤークーブ・ベグとの個人的な関係から任じられたコーカンド人が多数を占めており、四万人からなった軍隊も百人長クラスまでヤークーブ・ベグ自身が任免権を掌握していた。さらに、社会宗教政策としてイスラーム法の履行を強化し、宗教施設の保護を強く打ち出したのは、すべてカリスマの欠如を自覚するヤークーブ・ベグの意志の現われであったとする。最後に税制として、通常税、臨時税の実際と、過酷と言われた収税事情が説明される。以上、ヤークーブ・ベグへの権力の一極集中を目指した諸政策は、総体的にはある程度成功を収めたとしながらも、他方、軍隊維持のための重税、コーカンド人の権力掌握、軍事遠征による多大な支出、多民族からなる雑多な軍の構成などはカシュガリアの民衆の反発、また軍隊の士気の低下をもたらし、ヤークーブ・ベグ国家の致命的な欠点であったと結論される。


第五章 新たな国際関係の形成

ヤークーブ・ベグ国家の国際社会への接近と、それに対する諸外国―英国、ロシアそしてオスマン朝の対応の推移が概観、検討される。ヤークーブ・ベグにとり外交関係は、外交行為を通じて住民たちの目に彼の統治の正当性を誇示して脆弱な権力基盤を強化させることと、国際社会における彼自身の政治的なステータスを高め、軍事援助を得るためのチャネルを見出すためのものであり、不断の努力の結果一八七二年にはロシアと、一八七四年には英国と通商協定を締結することに成功した。そしてサイイド・ヤークーブ・ハンの外交努力の結果一八七三年にヤークーブ・ベグの国家はオスマン朝を宗主国とし、その見返りとしてヤークーブ・ベグはアミールに封じられ、武器、軍事顧問の供与を受けることに成功する。このヤークーブ・ベグの確立した外交関係は、中国世界(東)、遊牧世界(北)、イスラーム世界(西)という三方との関係を軸としていた当地の伝統的な対外関係の枠組みを打ち破るものであり、当時の当地をめぐる国際関係を鋭敏に察知したヤークーブ・ベグの主体的な活動の所産であった。著者はこうした認識に立って当時そして現在も盛んに用いられる「グレート・ゲーム」(内陸アジア地域を大国のパワーポリティックスのせめぎあうチェスボードに見立てる視点)という術語について、ヤークーブ・ベグ外交の主体的側面、さらには新疆回復をめぐる清朝の主体性に鑑み、この術語の不当性を主張する。


第六章 ムスリム国家の崩壊

陝西・甘粛のムスリム反乱平定とそれに続く新疆回復論争のプロセス、左宗棠による新疆再征服着手、ヤークーブ・ベグの急死とその国家崩壊の過程が順を追って説明される。まず左宗棠が新疆再征服にとりかかるまでの紆余曲折が述べられる。一八六七年から一八七三年までの陝西・甘粛での活動、李鴻章との「塞防」・「海防」論争、続く軍費捻出・軍需物資調達の事情が示される。次に清軍によるジュンガリア~新疆東部の再征服過程、ヤークーブ・ベグの急死の経過が述べられる。ヤークーブ・ベグが死の直前に発した清軍との非交戦命令、英国の仲介のもとロンドンで行われていた和解工作の詳細が明らかにされる。最後にヤークーブ・ベグ国家の最終局面、すなわちヤークーブ・ベグの突然の死によって発生したムスリム陣営の混乱、内紛、そしてついには清軍の進駐により十三年ぶりに新疆が再征服されるまでの過程が述べられる。この新疆再征服は、ひとり清軍の強力な軍事力によってなされたのではなく、それ以上にヤークーブ・ベグの交戦忌避による士気の低下などまず政権内部に問題があり、ある意味において自滅的なものであったと結論される。


結論

各章の要点が順を追って述べられる。そして本書で扱った時代、すなわち一八六四~七七年の間に起こった政治的な出来事が、その後の新疆史に永続的な痕跡を残したことがあらためて指摘される。その顕著な結果として新疆の省制への移行がおこなわれ、今日に至る広範な中国人の殖民、すなわち新疆の本格的な中国化の開始へとつながることとなったこととする。さらに、この「動乱期」は当地のムスリム住民の内部にも消すことの出来ぬ痕跡を残し、以後政治指導者として宗教指導者が立つことはなくなり、ロシア領トルキスタン及びトルコにおける「新方式運動」に深く感化されたあらたな知識人たちの出現を見ることとなったこと、政治運動の指導理念も民族主義が重きをしめるようになり、「聖戦」がもはやスローガンとしてしか意味を持たなくなったことなどが指摘される。以上、十九世紀後半の大変動ののち、政治、社会構造、民族構成、対外関係の領域に及ぶその変化は、強い力として二十世紀における当地の近代史を形作るのに影響を及ぼし始めたものであると結論する。


以上が本書の大要である。次に、本書の特徴と私なりの意見・展望を若干指摘しておくこととする。

 

本書の特徴としては、第一に文献・史料の広範な渉猟が挙げられるであろう。チャガタイ語、ペルシャ語などの現地語写本史料、英国外交文書、オスマン朝文書、オスマン朝軍事顧問の証言など、これらの中で本書で初めて本格的に駆使された史料も少なくない。こうした夥しい文献・史料の情報からくみ上げられ、導き出された知見の数々はそれぞれ相応の手堅さ、説得力を獲得することに成功している。

加えて著者が個別の章で行った分析は、その一つ一つが事件史の整理と言う範疇を遥かにこえた、当時代史が包含する多様な歴史的アスペクトに対する新たな知見が満載されている。例えば乾隆いらいの清朝の統治政策の「破綻」は、当地域を主体的に捉え、清朝の政策に加えて現地当事者の視点、さらにはコーカンド・ハン国の東方政策をも視野に置いた著者によって初めて導き出し得た歴史像である。こういった事情は他の各章(アスペクト)においても同様である。筆者が冒頭に指摘するように、これまで新疆という地域は研究者の間でさえある種の「思い込み」によって軽く扱われてきた。しかし、実際はこの地域を主体的に理解せぬ限り、清朝史も中央アジア史も、当時の国際関係(いわゆる「グレートゲーム」)も、その実相を正確に捉えることは出来ないのであり、本書はその事実を白日の下に晒したと言うことも出来るのではないか。


本書に多少残念な点があるとすれば、それは史料の運用上の問題に尽きるであろう。著者はその文献一覧において本書では直接参照・利用できなかった史料・文献にアステリスクを付して示している。この措置は、ソ連圏(当時)の写本コレクションや刊本類にアクセスすることがまだ難しかった著者の博士論文執筆時(一九八○年代半ば)にはいたし方のない措置であったろう、しかし、十五年経た今日、それらの写本へのアクセスが劇的に容易になった状況に照らすならば[六]、著者は少なくともそれら史料を直接利用すべきではなかったか。たとえばカシュガル蜂起に関して著者は方略、フォーサイス報告、ショウの旅行記、サイラーミー、そしてロシア語研究文献に依拠し検討を行っているが、このくだりについては複数のサンクト・ペテルブルグ所蔵写本を直接利用すればより詳細な状況を示すことが出来たはずである。同様の事情はおそらく同写本コレクションがカヴァーしているすべての記事にあてはまるであろう。もちろん著者はこれらサンクト写本の記載情報もロシア語研究文献からの孫引きと言う形で可能な限りの情報を提供しようと努めている。しかし孫引きは所詮孫引きであり、その情報は質的にも量的にも限界があることは明らかである。筆者がこれら史料を直接利用することで本書の精緻な論証とそれによって導き出された結論が大幅に変化を見せることはないかもしれない。しかし、それら史料を直接利用せぬ限りは、著者が冒頭で打ち出した「当事者のメッセージに耳を傾ける」という方針を十全に履行したは言えないのではないか。 

些か苦言めいた指摘を行ったが、私としては、著者自身がサンクト写本を通覧した上で(正しく『ターリーヒ・アムニーヤ』の著者サイラーミーがかつて繰り返し行ったように)、本書の版を改める際にはあらためて若干の増補・改訂に取り組まれ、本書の価値をより揺ぎ無いものにすることを強く勧めたいが、それは過分な期待であろうか。


ともあれ、本書の出版により、十八世紀中葉から二十世紀中葉までの二世紀間の新疆史に関するモノグラフがついに出揃ったことになる。佐口透、J・ミルワード、キム・ホドン(本書)、片岡一忠、A・フォーブズ、L・ベンソン、王柯などの著作[七]を通じて、ここに初めて我々は新疆史を長いスパンで連続的に捉えることが可能になった。当地域の歴史研究はこれからが正念場である。今後の新疆史研究はこれらの卓越した成果を土台とした、より深く掘り下げられた研究の出現が期待されるであろう。


新疆史に関わる最近の研究展望としては、まず清朝政府の視点から当地域の具体的状況を窺い知り得る根本史料として、北京第一歴史档案館所蔵の満文・漢文文書類の存在が注目され、最近その研究成果が続々と発表され始めている点は特記しておきたい[八]。北京所在のドキュメント類は新疆の都市レヴェルのこまかな状況を伝える情報に満ちており、当時の社会の実相を解明するうえできわめて重要である。また、土地契約文書のごとき、住民の社会経済関係を窺わせるような市井の文書史料も発掘・研究が始められている[九]。加えてトルキスタン総督府文書をはじめとするロシア側のアーカイブ史料などは依然広大な沃野が広がっていると言える。更には実地調査を援用した歴史人類学的なアプローチも取り組みが始まっている[一〇]。新疆史研究は今や編纂史料や著述史料から、より生のドキュメント、果ては実地調査研究へと移行しつつある。そういった状況にあって、本書はその手堅い歴史叙述、多様なアスペクト、新知見の提示、そして史料・工具書的価値とあいまって、高い価値を持つ研究として長い寿命を持つこととなるであろう。


最後に、こうした新疆住民の視点に立ち、かつ政治的な恣意からも自由で質の高い歴史書の登場はほかならぬ当地住民に対するまたとない贈り物と言えるだろう。このような好篇を世に出された著者にはあらためて大きな拍手を送りたいと思う。

 

Kim Hodong, Holy War in China: The Muslim Rebellion and State in Chinese Central Asia, 1864-1877. (Stanford: Stanford University Press, 2004) 295p.

 

 



 

[一] 濱田正美「十九世紀ウイグル歴史文献序説」『東方学報』五五号、四六○頁。

[二] 代表的なものとして、濱田正美「ムッラー・ビラールの『聖戦記』について」『東洋学報』五五巻四号、三一~五九頁、Hamada Masami,"De l'autorite religieuse au pouvoir politique: la revolte de Kuca et Khwaja Rashdin" Naqshbandis: Cheminements et situation actuelle d'un ordre mystique musulman,edites par M.Gaborieau et A.Popovic et Th.Zarcone, Istanbul-Paris,1990,pp.460-462. 新免康「ヤークーブ・ベグ政権の性格に関する一考察」『史学雑誌』九六篇四号、一~四十二頁、同「十九世紀動乱期のトゥルファーン」『イスラム世界』二九・三○号、五六~七六頁など。

[三] 菅原純「クーチャー・ホージャの『聖戦』とムスリム諸勢力(1864-65)」『内陸アジア史研究』第一一号、一七~四〇頁。

[四] Hamada Masami, "Research Trends in Xinjiang Studies" Stéphane A. Dudoignon and Komatsu Hisao (eds.) Research Trends in Modern Central Eurasian Studies (18th-20th Centuries ): A Selective and Critical Bibliography of Works Published between 1985 and 2000. Part 1. (Tokyo: The Toyo Bunko, 2003) p.85.

[五] 西北回民反乱における流言の実態については先ごろ発表された黒岩高「械闘と謡言――十九世紀の西陝・渭河流域に見る漢・回関係と回民蜂起――」『史学雑誌』第一一一編九号、六一~八三頁に詳しい。

[六] 先ごろ、東洋文庫では本書に関連するサンクト・ペテルブルク所蔵写本のマイクロ・フィルムを参照・利用することが可能になった。

[七]佐口透『十八ー十九世紀東トルキスタン社会史研究』(吉川弘文館、年)、Millward,James, Beyond the Pass: Economy, Ethnicity and Empire in Qing Xinjiang, 1759-1864. ( Stanford University Press, 1998 )、 .片岡一忠『清朝新疆統治研究』(雄山閣、一九九一年)、Forbes, Andrew, Warlords and Muslims in Chinese Central Asia : a political history of Republican Sinkiang 1911-1949 (Cambridge University Press,1986)、Benson, Linda, The Ili Rebellion : the Moslem challenge to Chinese authority in Xinjiang, 1944-1949 (M.E.Sharpe, 1990)、王柯『東トルキスタン共和国研究-中国のイスラムと民族問題』(東京大学出版会、一九九五年)

[八] 例えば小沼孝博「在京ウイグル人の供述から見た十八世紀中葉のカシュガル社会の政治的変動」『満族史研究』一号、四〇~五一頁、堀直「『大木文書』のベクたちー北京第一歴史档案館所蔵史料との検証ー」『甲南大学紀要 文学編』一二九号、一~三三頁。

[九]堀直「回疆の社会経済文書について-チャガタイ語文書の紹介を中心として-」『西南アジア研究』五四号、八四~一〇四頁。

[一〇] Bellér-Hann, Ildikَo(2000), The Written and the Spoken: Literacy and oral transmission among the Uyghur  (ANOR 8), Berlin: Das Arabische Buch, 101p.
















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