所 載 澤田稔編『中央アジアのイスラーム聖地―フェルガナ盆地とカシュガル地方―』(シルクロード学研究vol.28)奈良:なら・シルクロード博記念国際交流財団/シルクロード学研究センター(2007年3月)、19-34頁。 HTML版公開 2010年5月10日 最終更新 2010年5月12日

| 【付記】 本稿は2005年に実施した調査に基づいて2007年に発表した調査報告をWEB向けに若干改稿したものである。本文自体にはそれほど改変を加えていないものの、図版はカラー表示を念頭に置いてより見栄えのする形に改めた。内容についてはオリジナル出版後あたらしい史料が発見されたり、また特にカシュガル都市部で劇的な変化があったが、ここではそれらはいちいちフォローしていない。本稿はあくまで2005年夏の時点の観察の記録としてご覧いただき、最新の情報をも含めたより総合的な情報については、2010年より開始されたマザール科研プロジェクト(mazar2010s)のサイトを参照いただきたい。 |
1.はじめに
澤田稔・富山大学人文学部教授を代表者とする「中央アジア・イスラーム聖地」調査プロジェクト(なら・シルクロード博記念国際交流財団/シルクロード学研究センター助成)の活動の一環として、私は2005年8月13日から8月26日にかけて、中国新疆ウイグル自治区を訪問し、主としてカシュガル地方におけるイスラーム聖地の調査を行った。
カシュガル地方は「壮麗なるカシュガルÄzizdānä Kashghar 」(Jarring: p.165)という雅称に相応しい大規模で整った都市景観を持つカシュガル市を核として、古くから東西交渉の要衝として政治、経済、文化など多方面で重要な役割を果たしてきた地域である。また、当プロジェクトが主たる対象地域として設定したフェルガナ盆地とはアライ山脈を隔て隣接しており、古くから各面で密接な関係を取り結んできた地域でもある。当地域のイスラーム聖地を調査し、取得情報を提示することは、フェルガナにおけるイスラーム聖地の歴史的、文化的位置づけを行ううえでも有意義であろうし、両地域共通の文化基盤と個々の文化的特性を解明するうえでも一定の貢献が期待できるであろう。
カシュガル地区におけるイスラーム聖地について言及した主なものとしては、わが国では19世紀から20世紀初頭における欧人の旅行記などをまとめた[佐口2005]、現地調査報告である[新免・王、2002][澤田1999a][澤田1999b]などがある。また現地研究者による調査報告で比較的網羅的なものとしては[普査資料],[Turan 1997a], [Turan 1997b], [Dawut 2001] などが指摘できる。こうした先行諸研究の成果に鑑みて、今回の調査では先行データの比較的乏しいイスラーム聖地を限られた時間内にできるだけ多く訪問し、フェルガナ盆地で実施した調査項目に沿う形で基本情報の取得に努めることとした。本稿はその調査報告として、今回の調査で訪問した各聖地につき、訪問地をその訪問の順に便宜的に7つの地域に分かち、取得情報の整理を試みるものである。
なお、以下の部分で示す諸情報はフィールドワークと文献情報を元に構成しているが、特に注釈を設けなかった情報は筆者の観察と各項で紹介するインフォマントの証言に基づく情報である。文献によった情報はそれぞれ注釈で典拠を示す。
2. 調査日程 当地域での調査日程は以下の通り。なお、調査の部分で示した記号(K**)は調査聖地の整理番号である。8/13(土)移動日(東京-北京-烏魯木斉)
8/14(日)烏魯木斉
・言語文字工作委員会 オスマノフ教授訪問
8/15(月)烏魯木斉
・新疆大学人文学院ダウット副教授訪問
8/16(火)烏魯木斉
・新疆大学民俗博物館サウット教授訪問
8/17(水)移動日(烏魯木斉-喀什)
8/18(木)喀什
・喀什市北東部聖地(K1~5)調査
8/19(金)喀什
・喀什市内聖地(K6~10)調査
・疏附県北部聖墓(K11~13)調査
8/20(土)喀什
・疏附県南部・阿克陶県聖墓(K14~17)調査
8/21(日)喀什
・日曜バーザール踏査(同市Yängi Bazar)
8/22(月)喀什
・岳普湖県聖墓(K18~20)調査
8/23(火)喀什
・疏附県西部聖墓(K21~24)調査
8/24(水)喀什
・阿図什市北部「聖域」(K25)調査
8/25(木)移動日(喀什-烏魯木斉)
8/26(金)烏魯木斉
・新疆大学人文学院院長アブドゥッラ教授訪問
8/27(土)移動日(烏魯木斉-北京-東京)
3. 喀什市北東部の聖地
K1ズライハ・ベギム(Zulaykha Begim)
喀什市コガン郷15村第2村民小組
標高 1305m, 北緯39º29'41.27", 東経76º04'19.69"
カシュガル市の北東郊外、市の中心から観光地として有名なホージャ・アーファーク墓(アッパク・ホジャ墓/香妃墓)を経てさらに東北に進み、鉄道を越え程遠からぬ地にアーファークの母親とされるズライハ・ベギムの墓がある。
当マザールはよく整った典型的なマザール・コンプレックスの様相を呈しており、大門をくぐると壁に囲まれた空間に参道、モスク、複数の池水(ハウズ)、そして墓室が配置され、敷地の北側には墓地が広がっている。池のほとりには大きな鍋が設置されており、居合わせた住民に尋ねたところ、葬礼の際の炊き出しに使用されるとのことであった。
墓室はレンガ造りの中規模の建物であり、16世紀の建築と伝えられるが、そんなに古いもののようには見受けられない。墓室内部は入り口手前の横長の空間と奥の墓室本体とが格子で区切られており、手前の空間は祈祷あるいはその他の目的のために参詣者が腰をおろせるよう筵が敷かれてある。奥の墓室本体は入り口から向かって左右に台座があり、右の台座はトルコ石色のタイルがあしらわれ、その上に2基の女性の墓(方形のピラミッド状)がある。こちらの台座には銘文入りのタイルがあり「ナマンガン」の地名が認められるが、その地名と被葬者の関係は不明である。左の素朴な台座の上には3基の墓があり、こちらはいずれも蒲鉾状の男性の墓であった。墓本体はそれぞれ赤い布で覆われており、布の下はそれぞれ青色や緑色の模様のタイルがあしらわれた豪華なものである。女性の墓の傍ら、墓室の中央にはレンガ造りのテーブル状の燭台があり、つい最近も使われていた形跡があり、これは今なお「おこもり」をする参詣者がいることを示しているものであろう。![]()
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ズライハ・ベギム墓
さて、政府(喀什市文物保護管理処)が設置した説明書きによる、当マザールの概要は次の通りである。
「16世紀に形成され、墓中に埋葬されているのはアーファーク・ホージャの母親であるズライハ・ビゲム(Zulaykha Bigäm(sic.))とその「岳父」であるミール・サイイド・ジャリーリー・カシュガリーなど。この墓はホージャ一族の家譜、関係を研究する上で一定の意義を有するものである。ズライハ・ビゲム墓は主墓、祈祷室、池などからなり、基本的に往時のスタイルを維持しており、総敷地面積は8020平方メートル。1993年1月に疏附県人民政府はこの墓を県級重点保護文物に指定し、現在はカシュガル市の市級重点保護文物に指定され、保護を受けている」
ズライハ・ベギムはアーファーク・ホージャ、すなわち歴史的にはカシュガル・ホージャ家の著名なホージャであるホージャ・ヒダーヤト・アッラー・アーファーク(Khwāja Hedāyat Allāh Āfāq)の母親として一般に知られ、アーファークに関わる聖者伝の類によく登場する人物である。またズライハ・ビゲムの実父であるミール・サイイド・ジャリーリー・カシュガリー(Mīr Sayyid Jalīlī Kāshgharī)も同様である[1]。これらの人物は著名ではあるがその墓廟についてはこれまで見出された文献史料では知られておらず、このマザールの存在そのものは我々にとり新しい情報であるといえるであろう。
[1]ホージャ研究の先駆であるハルトマンはQārī ‘Abd al-Jalīlなる人物のあらわした系譜書に基づきズライハ・ビゲムをアーファークの妹(Shwester)としている(Hartmann, pp.313-4)。この点はなお若干の検討の余地を残しているだろう。
K2カラサカル・アタム(Qarasaqal Atam)
喀什市コガン郷15村第4村民小組
(測位データなし)
カラサカル・アタム墓ズライハ・ベギム廟の大門の向かって左側から徒歩で10分ほど進むと、カラサカル・アタム廟がある。こちらは道端の台座の上に中規模の蒲鉾状の墓が一基あるだけの大変質素なつくりであり、また参詣者が置いていく布切れや、火を焚いたあとも無く、聖地として現在も機能しているかどうか些か疑問に感じられるような状態であった。墓廟の傍らにはズライハ墓と同様にカシュガル市文物保護管理所設置になる説明書が掲げられてあった。
説明書によれば、当墓廟に埋葬されてあるのはカラ・ハーン朝期の軍人であったカラサカル(黒鬚)なる人物であり、中央アジアから到来してカラハン朝を助け、のちこの地に居住した人物であるという。
居合わせた住民の証言によれば、この墓は以前は墓室ほかの施設を備えた大規模なものだったそうで、それが文化大革命の際に破壊され現在のような形になったのだという。
K3シャム・パードシャー(Sham Padshah)
喀什市コガン郷10村 標高 1346m,
北緯 39º31'36.21", 東経 76º02'34.65"
カシュガル鉄道駅から真北に4km弱ほどの小高い丘陵地帯に墓地があり、その中にシャム・パードシャー墓がある。こちらは中規模のグンバズ建築を有する墓室であり、モスクも同じ墓地内に併設されている。
墓室内には大きな男性の墓が一基と、その右側に女性の小さな墓が2基あり,前者は北面に鮮やかな筆致でペルシャ語の墓誌が書かれてある。また、その墓碑のちょうど前に燭台があり、ごく最近にも夜明かしをここでする信徒がいたことが察せられる。
墓誌(別掲)の内容は部分的に剥落した部分があり読みにくいが[普査資料:p.67]によれば被葬者は阿布都熱合曼熱衣木(<’Abd al-Rahman Rahim)で、ヒジュラ暦510年(1116-7)に亡くなった由である。墓誌にはまたシャーム(Shām)すなわちシリア出身者であることも書かれてあり、シャム・パードシャーという聖墓の名前がここから来ていることが知られる。![]()
シャム・パードシャー墓の燭台と墓碑銘、外観
カシュガル市文物保護管理所設置になる説明書によれば、被葬者は中央アジアからカラ・ハン朝の軍に参加した将軍の墓であり、傍らの2つの小さな墓はその人物の妹たちであるという。
K4オスマン・ブグラ・ハン(Osman Bughra Khan)
喀什市コガン郷 標高 1314m,
北緯 39º30'10.15", 東経 76º02'35.05"
オスマン・ブグラ・ハンの墓はカシュガル鉄道駅から北西に1kmほどの地点に位置している。こちらは政府の管理下におかれておらず、また言及した報告もない、学術的には未知の聖者廟である。墓地の中に墓の覆いといった程度の小屋(墓室)がしつらえてあり、墓の前にはトゥグが直立し、墓室の中にはオスマン・ブグラハンの墓とされる墓が一基ある。この墓もまたシャム・パーディシャー同様に墓誌があり、こちらは墓の南北両面のタイルに文字をみとめることが出来る。
墓誌北面はおそらくは被葬者名オスマン・ブグラハンとその没年ないしは墓の修建年代が書かれていると考えられ、末行の記事によればその年代は1182年(1768-69年)である[2]。一方、南面は一部が失われているが、カシュガル人シャムスッディン(Shams al-Dīn b. Ustād Sarū al-Dīn al-Kāshgharī)という名前が認められ、あるいはこの墓廟の普請を行った人物ではないかと推測される。![]()
オスマン・ブグラ・ハン墓北面の墓誌(左)と墓室外観(右)被葬者オスマン・ブグラ・ハンなる人物についての詳細は不明である。カシュガル地方の歴史上、こうした名を持った君主(ハン)は管見の及ぶ範囲では見当たらず、この人物のアイデンティファイも今後の課題であろう。
[2]北面の墓誌末行に”sana arba‘īn va tamāma khāna”とあり、arba‘īn(40)にt(a)māma khānaの数価をそれぞれ加えると(400+40+1+40+5+600+1+50+58)その和は1182である。
K5フシュ・キペク・ベグ(Khush Kipäk Bäg)
喀什市コガン郷1村4組轄区 標高 1310m, 北緯 39º29'26.74", 東経 76º01'29.98"![]()
フシュ・キペク・ベグ墓ホージャ・アーファーク墓の敷地の北側に隣接した道路沿いの一角に位置する。政府が設置した看板があり、そこから1段高くなったところに壁で囲まれた墓地がある。墓地の奥にはさらに低い土塀で囲まれた一角があり、そこがフシュ・キペク・ベグの墓所である。墓室を持たない、質素な囲いだけの墓ではあるが、墓そのものは青いタイルで装飾され文字が書かれてある(本書口絵写真参照)。残念なことに文字自体は墓の表面に泥が付着しており判読不能であるが、外観はアーファーク墓内部の墓に酷似しており、あるいはアーファーク墓の修建と同時期(ヤークーブ・ベグ時代)に手が入れられたものかとも想像されるが、確証は無い。
政府設置の説明は以下の通りである。「…(当墓所は)占地面積が48平方メートル。17世紀に建てられた。フシュ・キペク・ベグ・カシュガリーはアッパク・ホジャの「総管」であり、著名な詩人であった。当マザールは当時の文学芸術方面の研究上、一定の価値を有している」フシュ・キペク・ベグなる人物についてはホージャの歴史を記した史料『ホージャ伝Tazkira-i Khwājagān / ‘Azīzān』にその名を見ることができ、ホージャ・アーファークよりは少し時代が下った「黒山派」のホージャ・ユースフの時代のカシュガルのハーキムとして登場する(Shaw-Elias: p.44; Hartmann: p.232)。アーファーク・ホージャの「総管」ならびに詩人という人物像は新しい情報であり、墓の存在、ならびにそれがアーファーク墓に隣接しているという点とあわせ、今後更なる検討が求められる。
4. 喀什市周辺および市域内の聖地
K6ムラド・バフシ・アタム(Murad Bakhshi Atam)
喀什市シャマルバグ郷第2村第5小村 標高1297m北緯 39º28'57.50", 東経 75º58'11.34"
ムラド・バフシ・アタムカシュガル市北西郊外、旧英国総領事館のチニ・バグ・ホテルの裏手から北西に1kmほど進んだところにムラド・バフシ・アタム廟がある。
墓廟は墓地の南側に位置し、モスク、祈祷場(ハヌカ)、広場、そして墓室などが壁で囲まれた比較的広大な空間に配置されてある。その敷地の西側にある小さな門をくぐり、左のモスクを横目に見つつモスク前の広場を横切り、さらにもうひとつの門をくぐると、そこは本尊であるムラド・バフシ・アタムの大き目の墓室と、その東側にはやや大きめの墓が4基整然と配置されてある。そして門を入って右側には小さな墓室がある。
このマザールについて、付設モスクのムアッズィンをつとめるアブドゥケリム・フセイン・ハッジー氏(Abdukerim Hüsäyn Haji, 78歳)から話をうかがうことが出来た。以下は氏の発言内容に基づく当マザールの概要である。
当マザールの歴史は比較的古く、遅くともホージャ・アーファク墓よりは早い。というのも当地ではホージャ・アーファークがこのマザールに一定期間(5ヶ月~10ヶ月)滞在して占い(istikhāre)をなしたとの伝承があるからで、してみると当マザールの歴史は17世紀に遡りうるということになるであろうか。当マザールの被葬者についてはその歴史を書いた本や文書も存在していないため不明である。その聖者が安置された墓室はレンガ造りの方形の建物であり、壁面はからし色で彩色が施されてある。中には聖者の墓が1基あるだけであるが祈祷用に赤いカーペットが敷かれ、掃除が行き届き、きわめて清潔に保たれている。
本尊である墓室の外にある4基の墓は比較的近年立てられたもので、それぞれイスラーム協会のラーイスや当マザールのハーティブなど、当地に関係する名士や宗教人士の墓であるという。
さらに墓所スペースの入り口右脇にある小さな墓室と女性の墓はハジェット・ヘニム(Hajät Khenim)なる女性の墓所で、そこは基本的に女性が病気治癒、子授け等祈願のため参拝に来るスポットであり、灯りを点して夜明かしする「お籠もり」も行われているとのことであった。
このマザールの運営は今日政府の管理下にあるとのことで、ムアッズィンのアブドゥケリム氏はイマームと一緒に毎週金曜日イェザ(村)の役所で開かれる会議に参加しているという。その際にイマームには給与が支払われるが、ムアッズィンには支払われない。ムアッズィンに対しては祭礼のときなどに氷砂糖など多少の報酬が与えられるとのことであった。
K7ブウィ・ハズィナム(Buwi Khazinäm)
疏附県レンゲル郷3村 標高 1374m, 北緯 39º31'23.23", 東経 75º50'55.65"ブウィ・ハズィナム・マザール ブウィ・ハズィナムのマザールはカシュガル市の北西、空港から真西に走る河の北岸に位置している。カシュガル市から連続して存在していた樹木や人家はこの川までで、橋を渡ると広漠とした台地と岩山だけの風景となる。川の反対側(南側)からみたブ・ハズィナムはレンガの壁を四方に廻らせた独特の格好を有しており、まるで砦のようにも見える。
小さい門をくぐって敷地の中に入ると、そこにはレンガ造りの墓室が敷地中央よりやや東よりに建てられてある。敷地西面には祈祷場があり、向かってその左側には「お籠もり」用と思しきレンガ造りの小屋がある。祈祷場から墓室までは数十メートルほどあり、その間はちょっとした広場の様相を呈している。
墓室はレンガ造りで堂々たるドームを備えたグンバズ建築であり、その中には墓が一基と、片隅には旗竿(トゥグ)が一本立てかけられてある。小屋はミフラーブがあり、そこは参詣者が火を焚いたらしく真っ黒にすすけていた。
ここではマザールから川を渡ってもっとも近くに住んでいる農夫のティッラジャン・ヘイタ氏(Tillajan Häyta, 49歳)に話を伺うことが出来た。氏によれば当マザールは「ブウィ・ハズィナム」以外にブウィ・アナム(Buwi Anam)という呼称もあり、それが村の名前となっている(ただし、実際には人民公社時代の「第3村」という呼び方が広く用いられている)。被葬者は「オルダハン・パードシャー(Ordakhan Padshah)」の娘であり、またハンの右腕のワズィール(宰相)としてハズィナチ(国庫管理役)を勤めていたことからその名があるそうで、実際の名前はブウィ・マリヤム・ヘニム(Buwi Märiyäm Khenim)と言う。
このマザールは同じ名前を持つベシュケリムのブウィ・マリヤム廟と同様に「子授け」祈願のマザールとして知られているようで、ヨプルガ、ペイザワット等の地から参詣者が訪れるそうで、木曜日と土曜日に来てタワープ(参拝)をするのだという。
現存するグンバズは疏附県城に住むモッラー・イスラム・ハリパム(Molla Islam Khälipäm)という人物が建てたものであるが、グンバズ建築中にモッラー・メメト(Molla Mämät)なる人物が当マザールにおける権利を主張したため中断を余儀なくされたという。この話はいつごろのことかはっきりせず、また諍いを起こした双方ともにいかなる立場でグンバズの建築を行い、またそれを止めたのか事情がよく見えないのであるが、当マザールがいかに当地域社会において一定の重要性を有していたかを窺い知る材料ではある。
K8チャルマ・アタ・ホジャム(Chalma Atar Khojam)
喀什市エグレクチコチャ230号 標高 1292m,
北緯 39º28'12.92", 東経 75º59'41.78"
チャルマ・アタ・ホジャム墓はカシュガル旧市から前述のコガン郷方面への出口であるトシュク門(門は現存せず、地名のみが残る)にほど近いエグレクチ・コチャ(Ägläkchi kocha)の民家の屋上に存在する極小規模の聖地である。それは政府の管理下になく、また民家の敷地内にあるため、一定の年齢以上の周辺住民以外はあまりその存在は知られていないという。今回は偶々雇った運転手がこの地域になじみがあり、聖墓の存在を知っていたため実見する機会を持ったものである。
「エグレクチ・コチャ230号」のプレートが掲げられた戸の奥に入り、住民に促されて狭い階段をのぼるとそこは見晴らしのいい屋上になっている。そしてその住民の占有スペースの南端に小さな土盛りがあり、そこに聖墓特有のアイテムとも言うべき長い角を蓄えた羊の頭蓋骨がはめ込まれてあった。これがチャルマ・アタ・ホジャム墓のすべてであって、トゥグや布切れといった他の聖墓で見られるアイテムは全く見られなかった。
チャルマ・アタ・ホジャムが「聖地」であることを示す唯一のシンボルである羊の頭蓋骨 住民の話ではこの聖墓は「二つの壁の間にある」聖墓で、その管理は10年前に亡くなったある婦人が生前していたとのことである。婦人は毎週金曜日の朝に急須(チャイネック)一杯分の水をこの土盛りにかけて清めていたのだという。また、この聖墓のことを知るという近所に住む最長老の女性の直話では、この聖墓の歴史はヤークーブ・ベグ時代にまでさかのぼるが、最近は誰もこの聖墓に注意せず、すべての人が俗に染まってしまったため、聖墓の霊力は残っていないということであった。
K9ハールーン・ブグラ・ハン(Harun Bughra Khan)
喀什市アリヤ路(旧キペク・コチャ)722号左隣
標高 1295m, 北緯 39º28'06.89", 東経 75º59'28.64"![]()
ハールーン・ブグラ・ハン墓の朽ちた門と墓前述のトシュク門から南~西に伸びるアリヤ路(Ariya yol)沿い、主道から少し左に入ったところ、アリヤ路722号のプレートを掲げた家の左隣に朽ち欠けた門があり、それがハールーン・ブグラ・ハンのものと伝えられる墓廟であった。この墓は地域住民にもまったく注意されていないようであり、隣家から敷地に入ったところ、普通車一台分の駐車場ほどのその敷地はゴミ捨て場となっている。わずかに奥のほうが一段高くなっており、そこに3基の墓が確認できる。墓はいずれもごく小さな蒲鉾状のものであったが、上に2,3枚緑色のタイルが置かれており、往時はそれなりに整った形を備えたマザールであったことが窺われる。
ハールーンという名前を持つ君主はカラ・ハン朝では11世紀末にハールーン・テギーンHārūn-tagīnなる人物があった由である(Barthold-Turkestan: p.318)が、カシュガルに現存するこの朽ちた墓がその人物のものであるかどうかについては、他の人物である可能性とあわせ、いま少し検討する必要があるであろう。
K10ボルチ・コチャ・マザール(Borchi Kocha Mazar)
喀什市ボルチ・コチャ69号向かい
(測位データなし)
ボルチ・コチャの聖墓ボルチ・コチャ・マザールとは筆者が便宜的に命名したものである。住民もこれを「ボルチ・コチャにあるマザール」と呼ぶだけであり、聖墓独自の名前はその地名を離れては存在していないようである。
当マザールはカシュガル独特の上に家屋が覆いかぶさったトンネル上の小路の四つ角に位置し、角の部分がちょうど風呂桶一つ分へこんでおり、そこに一基の墓が安置されてある。聖墓らしいアイテムは何も無いがきわめて清潔に掃除が行き届いており、地域住民によってちゃんと管理が為されているようである。
居合わせた住民によれば、当マザールの被葬者の名前は「ハサン・フサイン・ストルク・キチク・ブグラハン(Häsän / Hüsäyn / Sütlük / Kichik / Bughra / Khan)」であるといい、果たしてこれが一人の人名なのか、複数の人名の混合なのか、それともその場しのぎの適当な応答なのかは判断しかねるけれども、普通の人間の墓ではなく何らかのいわれのある人物の墓として認識されていることは了解してもよさそうである。またこのマザールはかつては屋外に存在し、堂々たる胡楊の大木のある墓苑だったそうであるが「アンディジャン人」がそれを切り、以後この墓苑は徐々に縮小し現在のような形になったのだという。
5. 疏附県北部の聖地
K11ブウィ・マリヤム・ヘニム(Buwi Märyäm Khänim)
疏附県ベシュケリム郷ベシュトグラク 標高 1275m, 北緯 39º32'27.47", 東経 76º09'50.83"
ブウィ・マリヤム・ヘニムの墓はべシュケリム郷ベシュ・トグラク村の幹線道路沿いに位置する。道路沿いの南側にレンガと鉄板からなるマザールの門があり、そこから約50メートルほど桑の並木で覆われた参道が伸びており、木の枝には参詣者によってさまざまな模様の布が結び付けられてある。参道を抜けたところは中央にレンガ造りのドームを有する墓室(グンバズ)を中心に配した小さな広場となっている[3]。
案内に立ってくれたセメット・マームット氏(Sämät Mamut, 26歳)はこの墓室を立てたメットケリム・チョン(Mätkerim Chong)という人物から数えて6代目にあたり、代々聖墓の管理者を務めている[4]。氏によればこの墓室のレンガはすべてヤルカンドから運ばれたもので、バダウラット、すなわちヤークーブ・ベグの時代(1860-70年代)に建設されたものである。往時この聖墓はモスクも周囲の墓地群も備えた、今よりはやや規模が大きなマザールコンプレックスであった。それが現在のグンバズ「修建時」に墓地は果樹園に整備され、さらにモスクも取り壊され別の地点に移動し、現在のように墓室のみの施設になったものである。
墓室は方形で一辺は5メートルほど。南に面した入り口から入ると正面に墓が一基ある。入り口の右脇には燭台、墓の左後方にはトゥグといわれる旗が複数立てかけられてある。そして墓の左側(墓室西面)の壁がんは明り取りの窓になっており、その凹んだ空間には石と羊の角が積まれてある(写真2-6参照)。
燭台は当マザールの「ご利益」と信じられる子授けを祈願する女性参詣者たちがお籠もりをする際に用いられ、石は参詣者がそれを持ち上げながら墓の周りを時計回りに数回周回し祈願する際に用いられるものである。そしてトゥグは参詣者が持ち込んだものであるが、参詣者たちはこれを「オルダ・パディシャーの旗(Orda Padshahning tughi)」と呼ぶ。![]()
ブウィ・マリアム廟内に積まれた羊の角と石、および外観当マザールへの参詣者は、通常毎週木曜日にべシュケリム、カシュガル市から多いときで100人、少なくとも50人を集め、時にはホタン、アトゥシュなど遠方からの参詣者もあるという。「子授けの聖地」としてこのマザールはカシュガル地域社会の中で一定の文化的な位置を有しているように見受けられる。
セメット氏はさらにこのマザールの縁起にかかる短い伝承を話してくれたが、その和訳はこちらを参照されたい。[3]当マザールのプラン、墓室の詳細なデータは[普査資料、p.70]、その参詣の分析については[新免・真田・王: pp.190-192]参照。
[4] ブウィ・マリヤム廟墓室の建設者(初代シャイフ?)からセメット氏に至る系譜は次の通りである。①メットケリム・チョン(Mätkärim Chong)、②不明(聞き漏らし)、③ソピー(Sopi)、④セメット・ビラール(Sämät Bilal)、⑤マームット(Mamut)、⑥セメット(Sämät)
K12マッサリ・オウム(Mässäli Oum)
疏附県アワット郷 標高 1280m, 北緯 39º30'49.28", 東経 76º08'49.54"
マッサリ・オウム・ゴジャムマッサリ・オウム・ゴジャム(Mässäli Oum Ghojam < Muhämmät Salih Orma Ghojam)は同エリアにある前述のブウィ・マリアム廟から南西に4キロメートル弱の所に位置する墓地である。敷地には目立った建物は現存しておらず、崩壊した墓室とモスクの跡がみとめられるぐらいである。
当地の農夫トゥルスン・マームット氏(Tursun Mamut, 54歳)によれば崩壊した墓室が聖者マッサリ・オウムのものであり、往時はベシュ・トグラクのブウィ・マリヤムよりも大きな建築物であったが10年ほど前に自然倒壊してしまったのだという。
トゥルスン氏は当マザールに葬られた聖者が農業にかかわりのある人物であると言う事のみ知っていたが、ダウトの研究によればこの聖者は前述のブウィ・マリヤム廟に伝わる伝承(本書第5章に収録)に登場する人物(農夫)であり、聖戦のさなかブウィ・マリヤムを救済したことから聖者となった人物だという(Dawut: p.164)。
K13キリチ・ブグラ・ハン(Qilich Bughra Khan)
疏附県アワット郷7村 標高 1286m, 北緯 39º29'31.44", 東経 76º08'12.04"![]()
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キリチ・ブグラ・ハンの墓園キリチ・ブグラ・ハン墓は前述のマッサリ・オウムから南に2キロほど、アワット郷の中心から程近いマザール・アルディ村(「マザール前」の意。旧称7村)の中央に位置する。村の幹線道路沿いに左から聖墓の古い門、墓地、モスクの門、そして比較的大規模で水を満々とたたえたハウズが続き、聖墓の門の傍らには県政府設置(1990年)の石の標識が立っている。
聖墓の門は往時は壮麗なものであったことを窺わせる堂々たるつくりであるが、墓廟そのものは広大な墓地の中に崩壊した小規模の墓室が見られるだけで見るべきものはない。
門の前で複数の村人から聴取したところでは、キリチ・ブグラ・ハン墓はアワット郷では最大規模の聖墓であり、被葬者キリチ・ブグラ・ハンはスルタン・サトゥク・ブグラ・ハンの子孫にあたる人物であるという。かつてこの地には立派なグンバズがあり、そこにはタイルにテキストも書かれてあったが、すべて40年ほど前に崩壊して失われてしまったのだという。
本尊が崩壊して失われてしまったマザールではあるが、当マザールへの信仰は残っており、今日でも毎週木曜日には子授け、病気治癒などさまざまな利益をもとめる参詣者が数十名ほど来るといい、それらはカシュガル市、アリバグ、ベシュケリム、ハンオイなどの住民だという。
6. 疏附県南部~阿克陶県の聖地
K14ホジャ・ヤフヤ(Khoja Yähyä)
疏附県ブラクスゥ郷4村 標高 1362m, 北緯 39º13'00.39", 東経 75º47'41.42"
ホジャ・ヤフヤ廟はブラクスゥ郷の中心から南に5kmほどのケスト・ケント(Käst känt, 旧称4村)クムエリク・マハッラ(Qumeriq mähällä)に位置する。幹線道沿いに大きな広場があり、その正面に新しく大きなモスクがあり、その正面向かって左側が墓地となっている。広場からおそらくは信徒の炊き出し用に用いられる3基の炉を横目に見ながら墓地に進むと、そこはポプラや胡楊がうっそうと茂っており、古いモスクの跡と、ハウズ跡と思しき遺構の傍らにホジャ・ヤフヤの墓とされる墓室がみとめられた。墓室そのものは左右に搭状の支柱を配した特徴ある建築物であり、入り口には軒状に屋根がかけられてある。墓室の中は墓が一基と数十本の旗竿(トゥグ)が墓の北面に立てられてあった。![]()
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ホジャ・ヤフヤ墓傍らのモスクと煮炊き用の竈(左)、マザール墓室内部(中)、墓室外観(左)
モスク前に住む住民に聞いたところではこの墓はボラ・マザールという名前も知られており、被葬者の名前がホジャ・ヤフヤ・ホジャムというのだという。ホジャ・ヤフヤはもともと4人兄弟であり、次項で紹介するホジャ・ケルマン・ホジャムやチュシュ・タグ(Chüsh Tagh)にあるという聖墓はこの聖者の兄弟にあたるのだという。
K15ホジャ・ケルマン(Khoja Kärman)
疏附県ブラクスゥ郷 標高 1353m, 北緯 39º12'31.50", 東経 75º48'43.90"
ホジャ・ケルマン廟ホジャ・ヤフヤ廟からアクトゥ方面に2km弱進むと、街道沿い右側にモスクがあり、道路沿いの手前にレンガ塀で区切られた一角がある。それがホジャ・ケルマンの墓と呼ばれる聖墓である。塀の中は2つに仕切られ、奥には旗竿(トゥグ)が立てられ、その前に土盛りらしきものがある。いたってシンプルなつくりであるが、このレンガ塀(囲い)は比較的最近作られたようにも見え、また内部では火をおこした跡もあったことから、このマザールに対する信仰も依然続いているのであろう。ここではあいにく事情を知る住民を見つけられず、この墓に関する情報を聞き出すことは叶わなかったが、前述のホジャ・ヤフヤ墓との関係もあわせ、この聖墓についてはなお再調査が必要である。
K16ホジャ・ペキル・ホジャム (Khoja Peqir Khojam)
阿克陶県ピラル郷1村
標高 1301m, 北緯 39º10'00.52", 東経 75º56'01.79"![]()
ホジャ・ペキル・ホジャムの墓室内部(左)と外観(右)
ホジャ・ペキル・ホジャムはブラクスゥ(Bulaqsu)からアクトゥ(Aqtu)に向かう幹線道路の右側、ピラル郷サイイドレル村(Pilal yeza Säyyidlär känt, 旧称1村)に位置する。アクトゥ県城から北に2kmほどの場所である。幹線道路から右に入ると正面にモスクがあり、モスクと幹線道を結ぶ道の右側の小高い丘の上にレンガ小屋の墓室と旗竿(トゥグ)がある。墓室のなかには墓が大小2基あり、それを覆う布のようなものはかけられていない。墓の上には祈祷書の断片と思しき紙片が詰められた布の包みが置かれてある。また墓室の傍らにはそこで炊き出しをするための炉が1基設置されている。
当地のシャイフであるマンスール・ハビブッラー氏(Mansur Häbibulla, 85歳)によれば、この墓の被葬者は墓の下方に現存するモスクのイマームを勤め、母親孝行で知られ、かつ治水に関する奇跡譚を有する人物であるという。この墓室は58年前に建てられ、文化大革命のさなか2人のものがこれを破壊したが15年前に修復された。またオパル、タシュマリク、ハン・エリク、ヤプチャン、ウジュマ、チャギルなど周辺地域から恒常的に(週に4-5名ほど)参詣者が訪れるのだという。当聖墓に関し、マンスール・シャイフが語った伝承はこちらを参照されたい。
K17コンサク・マザール(Qonsaq Mazar)
阿克陶県ウジュマ郷7村
標高 1328m, 北緯 39º06'57.13", 東経 75º59'12.93"
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コンサク・マザールの墓室(左)、建設中の厨房(ashkhana, 中)と現在の厨房(右)
コンサク・マザールはアクトゥ県ウジュマ郷(Üjmä yeza)中心から東南2,5キロのレンゲル村(Längär känt, 旧称7村)の幹線道路沿いに位置している。幹線道路脇の村のモスクからさらに奥にはいると聖墓専用の門があり、その中に参詣者のための炊き出しをするための食堂、墓地、そして新疆ではやや珍しい縦長の墓室がある。また、敷地内にはこの聖墓が県政府の管理下にあることを示す鉄製の大きなプレートがたてられており、それによると当地の正式名称は「コンサク・マザール-ロズィ・メリケム(Qonsaq Mazar - Rozi Märikäm)」とのことであるが、後半のRozi- Märikäm(ロズィ王妃?)が具体的に何を意味するかは確認できなかった。
墓地内はあちこちに旗竿(トゥグ)が立っており、聖者の墓室右脇にも、その建物のドームに届くほどの長さの旗竿が立っている。墓室内部は2基の墓があるだけで、布もかけられておらずきわめて質素なつくりとなっている。
訪問時、この聖墓では新しい食堂を建築中であり、敷地内では数人が建物の枠組みを組む作業をしていたが、その中の一人、モスクのカーリーを勤めるアスィム・カーディル氏(Asim Qadir, 61歳)に話を伺った。氏によれば当聖墓の2人の被葬者は墓室向かって右側がムハンマット・アリー・アルスラン・ハン(Muhämmät Äli Arslan Khan)、左がユスプ・カーディル・アルスラン・ハン(Yüsüp Qadir Arslan Khan)といい、2人は兄弟で、ともに異教徒との聖戦の中で殉教した人物なのだという。また、聖者の墓室の周囲にはキリチ・ブグラハン(Qilich Bughra Khan)、ならびにヌル・エラヌル・ヘニム(Nur Älanur Khenim)なる高貴な人物の墓もあるとのことで、後者は聖戦の際に炊き出しをした聖者だという。
当マザールは前述の通り政府の管理下にはあるものの、財政的な支援は無く、運営はすべて信者の寄進財に頼っている。文化大革命で破壊された当マザールの墓室は4年前に修復されたとのことであったが、これはすべて信徒たちの浄財でまかなったものだという。
7. 岳普湖県の聖地
K18コイルク・アタム(Qoyluq Atam)
岳普湖県ヨプルガ郷 標高 1191m, 北緯39º15'11.17", 東経 76º55'07.29"![]()
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コイルク・アタムの墓群(左)と石碑A(中)、石碑B(右)コイルク・アタム墓はヨプルガ(岳普湖)県の県城から東に13kmほどのところに位置する。広大な砂漠の墓地であり、夥しい数の蒲鉾状の墓石が砂漠に半ば埋没するように点在しており、墓の周囲を木の柵で囲ったものも多く見受けられる。またおそらくはそれぞれの墓に最低1本は長い木の枝や旗竿(トゥグ)が立てられ、そのため墓地は細い木の枝がまるで生い茂っているように林立した、独特の風景を形作っている。こうした風景は新疆、とくにホタン地区の砂漠の墓廟でよく見受けられる風景である。
墓地入り口あたりに県政府がたてた標識が金属製のものと石碑状のもの(石碑A)が2つあり、この聖墓が400年前来の古墓群として政府の管理下にあることが記されてある。もうひとつ、石碑状の標識(石碑B )が墓群により近い所にも存在し、当地が晩唐期の「比納木樹阿薩謝●[革+力]」なる遺跡でもあることが記されてある。
「本尊」ともいうべきコイルク・アタムは広大な墓地のなか、参詣者もいなかっため、どれがそうなのか確認することは結局出来なかった。
当聖墓については墓地から西に10分ほど車で行ったところにある集落に住む当聖墓のシャイフであるオスマン・スルタンムラト氏(Osman Sultanmurat, 99歳)とその妻アイニサハンさん(Aynisakhan, 100歳)からお話を伺うことが出来た。お二人によると当マザールの所在地は墓地の端に当たるところに1基あるとのことで、マザールの本来の名前は「シャーディガーネ・ワリユッラー(Shadighanä Wäliyullah)」、被葬者である聖者は羊飼いで、2歳のときに「アッラー」という言葉を口にし、7歳から羊飼いをはじめた人物とのことである[5]。当マザールはバダウラト(インフォマントは「我がバダウラト(Badaulitim)」と証言)、すなわちヤークーブ・ベグが墓室を建造させたのであったが、後に崩壊してしまったのだという。氏はまた当マザールにはタズキラ、すなわち聖墓の由来を記した聖者伝が伝わっていたが、ある時カルガリクから来た人物が持ち去ったのだという。[5] アディル・トゥランの研究によれば,この羊飼いはシャハビディンなる人物で、ホジャ・アバーベクリーの羊飼いを勤めた人物とされている(Adil Turan 1997a: pp.37-38)。
K19ブウィ・アナム(Buwi Anam)
岳普湖県 標高 1205m, 北緯 39º12'17.73", 東経 76º44'52.42"
ブウィ・アナム墓ブウィ・アナム墓はヨプルガ県城から南西に4km弱のところに位置する。当聖墓はトウモロコシ畑とポプラ並木に囲まれた広大な一角に直立する巨大な旗竿(トゥグ)の束と、その傍らのレンガで組まれた演台ほどの大きさの建造物からなる。旗竿は今回の調査で見たものの中で最大で、高さは低く見積もっても10メートルはあるであろう。
居合わせた住民には被葬者ブウィ・アナム・ヘニムがブウィ・マリヤム・ヘニムと同一人物であること以上のことは聞き出すことが出来なかったが、アディル・トゥランは同県バイ・アワット郷に存在する「ビービ・マリヤム・ヘニム」の聖墓について、カラ・ハン朝のムハンマド・サイイド・アルスラン・ハン(Muhämmät Säyyid Arslan Khan)の娘で聖戦のさなかなくなった人物と紹介しており、これが当聖墓をさすものではないかと考えられる(Adil Turan 1997b: p.37)。
K20アフンルクム・マザール(Akhunluqum Mazar)
岳普湖県アフンルクム郷 標高 1176m, 北緯 39º10'18.74", 東経 77º14'28.55"![]()
アフンルクム墓園内の「胡楊王」(左)と墓園大門前に示された説明書き アフンルクム・マザールはヨプルガ県アホンルクム郷(旧称「東方紅」郷)の西南7-8キロの地点に位置する。総面積1500畝といわれる敷地は大半が砂丘であり、その砂丘の上やすり鉢上の砂丘の底などにおびただしい数の墓が展開しており、しかもそのそれぞれの墓ごとに旗指物(トゥグあるいはアラム)が立てられてあるさまは量的に他のマザールを凌駕しており、独特の景観を形作っている。この地には砂丘の各所に胡楊の巨木が生えており、マザールの入り口や巨木の前には漢語で「胡楊王」の看板が掲げられるなど、漢族向けのツーリズム・スポットにもなっているように見受けられる。
筆者が訪問した日は墓参の曜日(木曜日)にも当たらず参詣者は1人も見ることはなかったが、先祖代々のシャイフであるトゥルディ・イミン氏(Turdi Imin, 1934年生まれ)から、当マザールの概要と伝承を詳しく伺う機会を持った(その全容はこちらを参照)。氏によれば当マザールの被葬者はモッラー・レヒムクル(Molla Rehimqul)という人物であり、ブハラ出身。当地でイスラーム伝教を行った人間であるという。トゥルディ・シャイフはその聖者から数えて21代目の子孫にあたり、地域社会で彼の一家は「ブハラ人」と呼ばれ、そう認識されているのだという[6]。
ラヒラ・ダウトはカシュガル地区で影響力の大きなマザールのひとつとして当アフンルクム・マザールをあげており、巡礼シーズンには多くの信徒が参詣に訪れること、その参詣期間は15日続き、その期間このマザール周辺が賑やかなバザールに一変し、さまざまな物資の取引に加え、語り部や芸人がさまざまなパフォーマンスを繰り広げることなどを紹介し、「アフンルクム行楽(Akhunluqum säyrisi)」という言葉が存在することを指摘している(Dawut: pp.111-112)。
ダウトはさらに続けてこの地がかつてはカシュガルからマラルバシにいたる街道の「宿駅」であったことを指摘しているが、かねて[新免・真田・王: p.228]などで指摘されているマザール参詣(民間信仰)とバザール・ネットワーク(物資流通)の関わりを考察する上で、当アホンルクム墓に関するこのダウトの指摘は注目される。
[6] トゥルディ・シャイフから聴取したアホンルクム・マザールの歴代シャイフの系譜は以下の通りである。①モッラー・レヒムクル(Molla Rehimqul、②イブラヒム(Ibrahim)、③グレク・ソパ(Gulek Sopa)、④アナ(Ana)、⑤モマ(Moma)、⑥ザマン(Saman)、⑦トフティ(Tokhti)、⑧ヘイト(Heyit)、⑨カスィム(Qasim)、⑩エイサ(Äysä)、⑪アナ(Ana)、⑫ザマン(Zaman)、⑬メフスト(Mäkhsut)、⑭レヒム(Rehim)、⑮モマ(Moma)、⑯ザマン(Zaman)、⑰ヘレク(Herek)、⑱トゥルディ(Turdi)、⑲エイサ(Äysä)、⑳イミン(Imin)、(21)トゥルディ(Turdi)。
8. 疏附県西部(オパル郷)の聖地
K21イマームリリム (Imamlirim)
疏附県オパル郷 標高 1384m, 北緯 39º17'13.19", 東経 75º35'42.60"
イマームリリムはオパルの郷中心の南東に展開する丘陵の上に位置する大規模な聖墓である。ここからはちょうどオパルをはさんで反対側(北西)に有名なマフムート・カシュガリー(Mahmut Qäshqäri)墓ことハズレティ・モッラーム(Häzriti Mollam)墓を眺めることが出来る。
当聖墓は丘の下に位置する池水とモスク、丘の上に展開するマザール墓室と墓群からなっている。丘の下は木が生い茂り涼しげな木陰があるが、丘の上は太陽が照りつける広漠とした空間である。
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イマームリリム墓の墓室
丘の上の墓室はレンガ塀に木で屋根をかけ、その上を泥で密閉したもので向かって左側が祈祷所、左が墓室で格子の向こうに墓が2基とその間に旗竿(トゥグ)がみとめられる。格子には参詣者が持ってきたものであろう、色とりどりの布が結び付けられてあった。祈祷所では、屋根のかかっていない壁際にはやや大きめのトゥグが立てられており、屋根の梁には、さして時間が経過しているとは思えない筆致で、びっしりとアラビア文字で韻文や聖者をたたえる言葉が書かれてあった。
祈祷所の木壁に墨で書かれたテキスト。預言者ムハンマドやイマームたちの系譜が看取される。
こちらでは当マザールのシャイフであるヤスィン・アホン(Yasin Akhun, 73歳)からお話を伺うことが出来た。アホンは代々当マザールのシャイフを勤める家族の「6代目」にあたるとのことである[7]。アホンによれば当聖墓の被葬者は2名、イマーム・マリク・エジュデル(Imam Malik Äjdäl)とイマーム・マリク・エスケル(Imam Malik Äskär)で、人食い竜との戦いで命を落とした人物であるという。ここでヤスィン・アホンが語った伝承はこちらを参照されたい。
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シャー・テリプ・ゼルメスの墓(左)と墓園内の池(右)丘の下には大きなトグラクと墓が柵で囲われた場所があり、そちらも歴史的なマザールであるとのことである。被葬者はシャー・テリプ・ゼルメス(Shah Tälip Zärmäs)といい、12イマームのコック(アシュペズ)を勤めた人物とのことである。
[7]しかし語ってくれたシャイフの総数は6人であって、ヤスィン・アホンは7代目のシャイフというのが正しいのではなかろうか。
K22コンタク・アタム(Qontaq Atam)
疏附県オパル郷 標高 1453m, 北緯 39º16'29.11", 東経 75º31'32.31"
コンタク・アタム墓はオパルの西に広がる高台の端に位置し、墓室からはオパルの緑の谷が一望できる見晴らしのいいところである。一方墓室の背後は遠くの山まで続く広漠とした大地であり、そこに墓地が点在している。墓室はイマームリリム同様にレンガ組みで南側に格子を配した構造をしており、中には白い墓が一基安置されている。
聖墓付設モスクのハーティブであるイミン・ダウット・カーリー(Imin Dawut Qari, 70歳)によれば、当マザールは「シルクロード」の商業活動の途上、この地で聖者が宿泊したことから命名された名前だという。マザールの墓室には現在は立ち入る事が出来なくなっているが、それは数年前に参詣者がここで火事を出してしまい、政府が老朽化を理由に閉鎖したとのことである。コンタク・アタム墓室背面からオパルの「谷」をのぞむ
K23セイピディン・ブズルグワリム(Seypidin Buzurgwarim)
疏附県オパル郷 標高 1442m, 北緯 39º18'09.60", 東経 75º30'49.56"
セイピディン・ブズルグワリム
前述のコンタク・アタムから有名なマフムード・カーシュガリー墓ことハズレティ・モッラーム墓までは山の稜線が南北に連続しており、その稜線上にはさらに2つのマザールが確認できる。そのひとつがセイピディン・ブズルグワリムのマザールである。
当マザールもコンタク・アタム同様に、その南面にオパルの耕作地帯が広がる眺望のよい地点に位置している。マザールの下の公道からは石で組まれた階段が整備されており、恒常的な参詣者の存在がここから推し量れそうである。
筆者が訪問したときは管理人を探すことができずこのマザールについて詳しく情報を聴取することはかなわなかったが、たまたま出会った女性参詣者からこのマザールの名称と、病気治癒などの現世利益のため参詣を行っていることだけはかろうじて聞き出すことができた。
当マザールについてもっぱら紹介した記事は現時点では見出すことができていないが、オパル・バザールで聴取した限りでは一般にこのマザールの被葬者「セイピディン」なる人物は、ハズレティ・モッラーム(あるいはマフムード・カシュガリー)と何らかの関連を有する人物と考えられているようであった。
セイピディン・ブズルグワリムの墓園からハズレティ・モッラーム(マフムード・カーシュガリー)廟をのぞむ。
K24 ハズレティ・パシャヒム(Häzriti Pashahim)
疏附県オパル郷 標高 1439m, 北緯 39º18'40.63", 東経 75º30'41.62"
ハズレティ・パシャヒムセイピディン・ブズルグワルと同様の稜線に連なり存在するもうひとつのマザールがハズレティ・パシャヒムである。筆者はアクセスするルートが発見できなかったため、このマザールをかろうじて高台の下の道路から観察したに過ぎず、またマザールの名称も住民から聞きだすことができなかった。当マザールの名称は隣接するマフムード・カシュガリーのマザール付設の展示館で写真が掲示されており知ったものである。ここではオパルのマザール群を構成する要素のひとつとして、このマザールが存在すると言う事実一点を指摘しておくことにとどめる。
9. 阿図什市北部の「聖域」
K25ジャイ・パッチム(Jay Pachchim)
阿図什市トグルメティ郷 第5村第2小村 標高 1871m, 北緯 39º56'29.94", 東経 76º01'35.20"![]()
ジャイ・パッチムへの道(1)写真をとっている男性は同行者の王建新・中山大学教授
ジャイ・パッチムはアトゥシュの北、山中の渓谷に展開する「聖域」の総称である。カシュガルからアトゥシュに向かう整備された幹線道路を車で向かい、アトゥシュに程近くなったある地点で左折、25kmほど北上したところが聖地の入り口である。 入り口にいたる道は大きな石がごろごろした悪路であり、特に最後の集落であるアッチク村(Achchiq känt)を過ぎると道路はところどころ崩壊しており、雇った車は幾度か渡ろうとした川の中で立ち往生し、そのたびに偶々オートバイで通りかかった参詣者の助けを借りることとなった。
聖地の入り口はロープが張られ、入り口脇には入り口の管理人が起居する建物があり、政府(アトゥシュ市文体局文管所)設置の「聖地ジャイ・パッチムMuqäddäs Jay Jay Pachchim」と書かれた看板が立てられてあった。その記事によれば2000年6月にアトゥシュ市の市(県)級重要文物保護単位に指定された由である。なお「聖地Muqäddäs Jay」が公式に冠された文物保護単位を見たのは筆者にとっては初めてのことである。
聖地入り口を通り、2km弱さらに北に進むとまたロープの張られたところがあり、傍らには食堂がある。参詣者はそこで車を降り、徒歩で参詣を始めることとなる。
ジャイ・パッチムへの道(2)
ジャイ・パッチムとは先に述べたとおり、ただひとつの聖墓を指すものではなく、複数の参詣スポットを有する渓谷全体、すなわち正しく「聖域」と形容すべき広い空間を指す総称である。具体的に「聖域」は最後の入り口から北に3-4キロに及ぶ渓谷地帯を指し、南から順に(1)モスク、(2)ソゲット・タン・マザール(Sögät Tang Mazar,古椰麻扎-古いソゲットの樹木に由来)、(3)コル・サルディ・マザール(Qolsaldi Mazar, 庫●[革+力]薩地麻扎-由来不明)、(4)点滴マザール(Tämchi Mazar, 点滴麻扎-滴り落ちる水滴に由来)、(5)らくだマザール(Tügä Atam, 駱駝麻扎-その背後に聳え立つ岩山の頂上に見える駱駝に似た岩に由来)、(6)40モスク(Qirq Mijit-由来不明。祈祷場が設けられ、前面には巨大な崖の岩肌が広がり、その表面は降水によりまるでアラビア文字のような模様が浮き出ている)などが点在している。
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らくだ石(左)と「40モスク」の祈祷場で祈りを捧げる人々(右)
この渓谷は澄んだ冷たい水が流れ、水量も豊富である。渓谷は水に洗われた巨岩が随所で渓谷特有の奇観を作り出し、ここかしこで清冽な水が雨のごとく滴り落ちている。その環境は土色に濁った水が流れるカシュガルとは全く対照的な世界であると言え、この聖域の聖域たる理由がこの特殊な自然環境にあることは容易に了解される。
モスクで会見したクルグズ人イマームのアブドゥライ・サイイド氏(Abduray Säyyid, 81歳)によれば、当地にはさらにグスルク・アナム(Ghusluq Anam)、ボシュク・アナム(Böshük Anam)という参詣地も存在し、いずれもカラハン朝期のサトゥク・ブグラハンの改宗伝説に関わっている人物だと言う。
「40モスク」前の崖。岩肌がクルアーンの文言にみえるという。
10. カシュガルにおける聖地の注目点と検討課題 以上が今回カシュガル地区で調査した聖地の大要である。最後に、調査のなかで注目された、今後の検討課題をいくつか指摘しておくこととする。
1)共通の伝承を仲立ちとする聖地のコネクション
当調査で明らかになったこととしてはまず聖地相互の共通の伝承を仲立ちとするコネクションがあげられよう。これは前年フェルガナ調査でも同様の事例が確認されたことである。今般の調査ではカシュガルのホージャ・アーファーク墓、アトゥシュのサトゥク・ブグラ・ハン墓、イェンギヒサールのオルダム・パードシャー聖域といった、きわめて著名な聖地伝承に関連した人物が祀られた中規模、小規模の聖地が少なくなかった。おそらくそこには伝統的地域共同体の「共同知」としての聖者伝承や巡礼ネットワークの存在が深く関わっているものと考えられ、その点が将来の検討課題として明らかとなった。
2)同一名称の聖地
次に注目されたのは、これは前項とも若干関わりがあることであるが、同じ名前を持つ聖地が複数確認されたことである。たとえばブウィ・マリヤムの名前を冠した聖墓は今回の調査だけでもカシュガルのレンゲル(K7)、ベシュケリム(K11)、ヨプルガ(K19)などがあり、いずれも宗教戦争のなかで殉教した女性を被葬者とし、子授けをはじめ女性を対象とした現世利益をもたらす聖地として信仰の対象となっていることはこれまで見てきたとおりである。またキリチ・ブグラ・ハンという人物についても同様で、今回は広大な墓苑を有するアワット郷の聖墓(K13)とコンサク・マザール(K17)墓苑内のほかは実見の機会を持たなかったが、各地で聴取したところではオパル、カシュガル市内などでもさらに同名の聖墓が現存するとのことである。これら同一名称(同一聖者?)の聖地については個々の伝承や、相互関係につき、一層の検討が必要であろう。
3)消失する聖地
つぎに、都市化によって消失しつつある聖地、あるいは「横丁の祠」として極めて限定的な地域社会で存在・機能し続ける聖地の存在などが注目された。今回の調査においてカシュガル市内で実見したチャルマ・アタ(K8)とボラ・コチャ・マザール(K10)は、前者は民家の屋上に、後者は上に家屋が張り出した暗く狭い通りの角に立地し、いずれも住民以外は足を踏み入れることのない閉鎖的な空間で、きわめて限定的な信者によって維持管理と参詣がなされている点に特徴がある。住民から聴取したところでは、もともとこれらの聖地はかつては現在よりはるかに大きな敷地を有し、樹木、礼拝堂、一般住民の墓地などが配置された典型的な聖者墓のスタイルをとっていたとのことであり、カシュガルの都市の変化(住民の増加に伴う住宅の拡張、増改築その他の事情)のなかで衰退し今日の形をとるに至ったものと想像される。このような聖地の「衰退の問題」-1980年代にいくつかの聖地が政府主導で民族文化遺産として認定され「復興」した事例と合わせるならば「盛衰の問題」-は、都市の変化・発展、住民の意識の変化、さらには政策の問題など複数の視点から更なる検討がなされるべきであろう。
上記以外にも近年の経済発展に伴うツーリズムの対象としての聖地の変化、聖地のプランや施設設備に関する問題、参詣者のメンタリティ、聖地の管理運営および宗教政策との関係など、注目すべき点はいくつかあり、これらについては今後フェルガナの事例と対照するかたちで詳細な検討を行う必要がある。そうした検討を経て初めて中央アジア内奥部(カシュガルとフェルガナ)共通の聖地の特徴、あるいはカシュガル特有の聖地像というものが見えてくるであろう。
地図: カシュガル地区(一部)とマザール
【参考文献】
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