所  載 新免康編『中央アジアにおけるウイグル人地域社会の変容と民族アイデンティティに関する調査研究』(平成15年度~18年度日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究A(1)・研究成果報告書)、53-70頁。
HTML版公開 2008年11月17日
最終更新 2008年11月17日


ドイツ連邦共和国所蔵の新疆史料について

-マルティン・ハルトマン収集写本と関連資料-


0.はじめに

19世紀末から20世紀初頭にわたって欧州「列強」諸国が新疆で展開した地理学、考古学探検などの諸活動の結果、今日欧州各地の図書館、研究機関に新疆由来の文献資料が少なからず収蔵されていることはよく知られている 。主要なものとしては、カシュガルに領事館を有していたイギリスとロシアをはじめ、スウェーデン、フランスそしてドイツなどのコレクションが知られ、これら欧州所在の史料は、文化大革命などの動乱による文献資料の喪失や独特の政治事情のため、アクセスできる史料が数量的に極めて限られる新疆の状況にあって、研究上極めて重要な価値を有していると言える。そしてその重要性は、「改革・開放」による現地の史料閲覧状況が若干改善された今日においてもいささかも変わることはない。

ドイツのコレクションはマルティン・ハルトマン(Martin Hartmann, 1851-1918)が20世紀初頭に新疆で収集した写本を中心とし、その大要は1904年にハルトマン自身が発表した写本リストによって知られていた。しかし二度の世界大戦とドイツの東西分割のなか、その存在は長く忘れ去られ、近年まで研究への利用はおろか、その所在すら十分に知られてはいなかったのである 。

筆者は1998年と2004年の2度にわたり、うち後者は本科研の派遣により、ベルリンとハレを訪問する機会を与えられ、ハルトマン収集写本をはじめいくつかの新疆由来資料を閲覧調査する機会に恵まれた。本稿はその報告である。以下の部分ではまずはじめにコレクション成立の背景として(1)ドイツの中央アジア研究とハルトマンの役割についてふれ、次に(2)ベルリン、ついで(3)ハレのコレクションについて簡単な紹介を試みたい。なお、本稿におけるアラビア文字のラテン文字転写は、便宜のため長母音、基本ラテン字母への付点はこれを一切省略することをあらかじめお断りしておく。



1.20世紀初頭ドイツにおける中央アジア研究とハルトマン

1.1.中東イスラーム学者ハルトマン

20世紀初頭、ドイツは中央アジア研究の中心のひとつであった。ドイツにおける中央アジア研究はグリュンヴェーデル(Albert Grünwedel, 1856-1935)、ル・コック(Albert von Le Coq, 1860-1930)らによって4次にわたって遂行された考古学調査とその蒐集品研究を軸とするものがあまりにも有名である。その規模と概要は、戦災を被ったとはいえベルリン郊外ダーレム博物館で現在我々が目にすることの出来る収集品の数々や、当時最高の印刷技術を駆使した豪華な図録、報告書類、さらにはその成果から再生産されたおびただしい数の書物、研究論文などから窺い知ることが出来るであろう 。これはドイツに限ったことではないが、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界の中央アジア学術研究はもっぱら仏教遺跡をあつかった考古学研究が多く、当時は同時代的に存在していたイスラーム化以後の中央アジアの文化や歴史に関する関心はおしなべて低かったと言うことが出来る。そうした中で、グリュンヴェーデルの第一次トゥルファン探検とほぼ同時期の1902-3年にカシュガル地方をめぐり、チャガタイ語、ペルシャ語の写本資料を収集し、収集資料に依拠した研究成果を世に送ったハルトマンの仕事は十分にユニークなものであったと言うことが出来るだろう。

ハルトマンは「新疆研究者」や「中央アジア研究者」というよりは、むしろアラビスト-正当な中東イスラーム研究者として名を残した人物である。ドイツの権威ある人名録であるNeue Deutsche Biographie(NDB)においてもハルトマンは「アラビスト、イスラーム研究者(Arabist; Islamforscher)」として紹介されている 。NDBはもとより、ハルトマンの仕事を紹介した複数の文献においてその伝えるところはアラビストとしてのそれであって、中央アジア、新疆、中国イスラーム研究に関する言及は極めて限られているのである 。

マルティン・ハルトマンは再洗礼派の牧師の子として1851年ブレスラウに生まれ、17歳で同地の大学に入学した。のちライプツィヒ大学に転じて著名なセム学者フライシャー(Heinrich Leberecht Fleischer)に師事し、1874年23歳にしてセム諸語の字母に関する研究で博士号を取得した。その後2年間をトルコ(エディルネ、イスタンブル)で教師として滞在しこの間にトルコ語を習得している。ついで1876年から11年間ベイルートのドイツ大使館付き通訳官をつとめ、その任務の傍ら袖珍版の旅行者向けアラビア語会話帳(Arabischer Sprachführer für Reisende, 1880)の出版、シリア旅行(1882-3)などを行った。1887年ハルトマンはベイルートを離れベルリンに至り、宰相ビスマルクの命により開設された東洋言語研修所(Seminar für Orientalische Sprachen、のちベルリン大学~現在のフンボルト大学の前身)のアラビア語の教授に就任し、以後1918年に亡くなるまでその地位にあった 。このベルリン時代にアラビア語文法やイスラーム学の概説書複数を世に送り、そのうち1909年に出版された『イスラーム(Der Islam)』は版が重ねられ、今日なお新版の入手が可能である。また晩年には、20世紀前半のドイツ・イスラーム学を牽引した「ドイツ・イスラーム学会(Deutsche Gesellschaft für Islamkunde [DGI], 1917 - 1955 )」の創設と機関紙『イスラーム世界(Die Welt des Islams)』の発刊において指導的な役割を果たしたことでも知られる 。こうしたハルトマンの業績は当時のドイツ東洋学、イスラーム学を回顧した複数の論文、記事において高い評価を受けている。また近年は当時のドイツの中東との関わりを代表する人物として新たに再評価の動きがあるようで、ハニッシュ(Ludmila Hanisch)編纂になる書簡集の出版などが行われている 。



1.2.「イスラームのオリエント」とのかかわり

さて、このように中東イスラーム研究者として知られるハルトマンの中央アジア、新疆、さらには中国にいたる東方イスラーム世界(「イスラームのオリエント」)とのかかわりはいかなるものであったか。筆者が目睹しえたハルトマンの伝記的な記事、研究は、ひとしくこの問題には沈黙しており、ただひたすらアラビア学や(当時のトルコのくびきに抵抗した)アラブ主義の支持者としてのハルトマンの情熱的な仕事を語るのが常套のようである 。確かにそれらの記事を読んでも、またハルトマンが上梓した文献のタイトルなどを通覧しても、当時の中東事情に積極的にコミットし、またアラビア語やイスラームに関する知識普及に努めるというのがハルトマンの仕事の大部をなしていたように見受けられる。しかしながら、ハルトマンが敢行した中央アジア~新疆旅行と、その前後から陸続と出された関連文献の数々、そしてドイツに将来された写本コレクションはその後の当該地域研究に少なからず影響を与えており、ハルトマンの中央アジア、新疆、中国地域のイスラーム研究に対する貢献は決して小さくない。

1902-3年のハルトマンの新疆~中国に至る旅行は、エジプト、シリア、トルコからさらに旅程を伸ばす形で実施されたもので、主たる関心は各地の現代イスラームの状況と言語状況の研究にあったと言われる 。新疆への旅程はフェルガナ盆地のアンディジャン~オシュを経由してアライ山脈を越えカシュガルに至ったもののようで、1902年の秋にカシュガルに入り、1903年の2月頃までカシュガル~イェンギヒサル~ヤルカンドを周遊していたことがハルトマンが同地で入手した写本の入手記録から窺うことが出来る 。またこの時期はちょうどわが国の大谷探検隊(第一次)が新疆で調査を行っていた時期と重なっており、渡邊哲信はその『西域旅行日記』に1月28日にアクスで聞いた噂として、ドイツ人の「ハートマン博士」が夫人を伴い「ターキー語の辞書を本国にて編纂せん」がため当地を巡っていること、ホタン訪問は中止のやむなきに至ったこと、ドイツ本国には3月中に帰着する予定となっていたことなどを伝えている(渡邊は旅程でハルトマンと出会うことを期待していたようだが、それが実現した形跡はない) 。

帰国後ハルトマンは辞書を出すことこそなかったようであるが、この旅行で取得した写本資料や諸情報に依拠した研究を続々と出版している。以下にリストを示す。

(1)1902年 『チャガタイ語』
(Caghataisches: Die Grammatik ussi lisani turki des Mehemed Sadiq.Heidelberg 1902, 83p.)
(2)1904年 「カシュガルからのテュルク語テキスト」
("Ein türkischer Text aus Kaschgar", Keleti Szemle 5, pp.21-35, 161-184, 330-343.)
(3)1904年 「ハルトマン収集になる東テュルク語写本」
("Die osttürkischen Handschriften der Sammlung Hartmann", Mitteilungen des Seminars für Orientalische Sprachen zu Berlin VII)
(4)1905年 『イスラームのオリエント-報告と研究』
Der islamische Orient : Bericht und Forschungen, Berlin, 145p.)
(5)1906年 「カシュガルからのテュルク語テキスト」
("Ein türkischer Text aus Kaschgar", Keleti Szemle 6, pp.26-65)
(6)1908年 『中国領トルキスタン:歴史、統治、精神生活と経済』
(Chinesisch-Turkestan : Geschichte, Verwaltung, Geistesleben und Wirtschaft, Halle, 115p.)
(7)1913年 「中国イスラームについて」
("Vom chinesischen Islam", Die Welt des Islam 1, pp.178-210 )
(8)1921年 「中国イスラーム史考」
("Zur Geschichte des Islam in China", Quellen und Forschungen zur Erd- und Kulturkunde ; Bd.10)

これらのうち(4)『イスラームのオリエント-報告と研究』(1905)は、ムハンマド・サーディク・カーシュガリー(Muhammad Sadiq Kashghari)の『ホージャ伝(Tadhkira-i 'azizan)』など新疆にて収集した写本資料に依拠し、17-18世紀のカシュガル・ホージャ家が権勢を誇った一時代を「神聖国家」と呼び分析・検討を加えた論文「イスラーム神聖国家-カシュガルにおけるチャガタイ朝の終焉とホージャの統治("Ein Heiligenstaat im Islam: Das Ende der Čaghataiden und die Herrschaft der Choğas in Kašgarien", pp.195-374)」を含んでいる。この論文は現地資料に依拠して当時は六城(alti shahr)と呼ばれた東トルキスタンの一時代を素描した、まさに先駆的業績と呼ぶに相応しい論文であった。それはわが国の中央アジア史研究の草分けである羽田明の「明末清初の東トルキスタン-その回教史的考察」(1942) ならびに佐口透の「東トルキスタン封建社会史序説-ホヂャ時代の一考察」(1948) 、さらには嶋田襄平の「アルティ・シャフルの和卓と汗と」(1952) などの諸研究が、いずれもハルトマンのこの論文に多くを負っていることからも明らかに知られる。そのほかにも1914年に執筆され、ハルトマン没後の1921年に出版された(8) 「中国イスラーム史考」も1941年に土方定一により日本語に部分訳され『支那の回教』というタイトルで出版されている 。一般的な評価としては見落とされていることであるが、東方イスラーム世界、就中東トルキスタン(新疆)研究においてもハルトマンの残した業績はめざましいものがある。



2.ベルリン所在のコレクション


所在地 Orientabteilung, Staatsbibliothek zu Berlin, Potsdamer Straße 33, 10785 Berlin, GERMANY
URL http://orient.staatsbibliothek-berlin.de/
E-mail orientabt@sbb.spk-berlin.de

ハルトマンが1902-3年の中央アジア・新疆旅行で収集し1904年にリストを出版した133点の写本資料は、ハルトマン存命中にベルリンのプロイセン国立図書館東洋部(Orientalische Abteilung der Preussischen Staatsbibliothek)に譲渡されたものである。第二次世界大戦中には地方(マアルブルク?)への疎開が行われ、その過程で2点が失われた由であるが1980年代に再びベルリンに移され現在に至っているのだという 。1992年の同図書館の機構改革に伴い、現在このハルトマン・コレクションはベルリン国立図書館東洋部(Orientabteilung der Staatsbibliothek zu Berlin)の所有に帰している。


2.1. カタログ

ハルトマン・コレクションのカタログとしては前述のリスト「ハルトマン収集になる東テュルク語写本」(1904)が出版以来一世紀を経た現在なお最も詳細であり、ベルリン国立図書館でも閲覧請求用のカタログとしてこのリストの各写本の項目に手書きの請求番号を書き加えたものが1冊配架されている。

これ以外の新しいものとしてドイツではドイツ所在の東洋写本コレクションの総合目録Verzeichnis der Orientalischen Handschriften in Deutschland のBand XIII, 4 Türkische Handschriften (Manfred Gotz編, Wiesbaden, 1979年)のB、"Tschaghataische Handschriften" (pp.493-533)に32点の写本が紹介されているが、収録点数、情報量共に前者の方が依然有用である 。



2.2. 書庫におけるハルトマン・コレクションの配置と規模

2004年の調査では東洋部(Orientabteilung)のディレクターFeistel博士のご好意で書庫への立ち入りを許可していただき、ハルトマン・コレクションの配架状況を実見する機会を得た。書庫で写本は通常のスチール書架に整然と番号順に立てて並べられており、ハルトマン・コレクションは3箇所に分置されている。ベルリン図書館における中央アジア・新疆由来のハルトマン・コレクション写本の範囲は次の通りである。

* Ms.orient.2°3286~3301 (16点) 
* Ms.orient.4°1284~1318 (35点)
* Ms.orient.8°1652~1731 (80点) (合計131点)

写本はいずれも前述の1904年発行のカタログに収録されているものであり、その前後は別言語(たとえば1283はヘブライ語、1651はチベット語、 3285はヘブライ語)の写本であった。書架に並んでいる写本類を通覧した範囲では少なくともハルトマン・コレクションはカタログに未収録の写本などは存在しないようであった。

ハルトマン・コレクション以外の新疆由来写本としては、1998年の調査の際に閲覧・複写した Albert Von Le Coq収集になるトゥルファン写本(主としてフラグメント。トゥルファンの歴代郡王を簡潔に紹介した一書を含む)があるが、それらは未整理のため別置されており書庫での「再会」はかなわなかったものの、今回の「捜索」では別枠の収集物と思しきトゥルファンの商売台帳(Ms.orient.2°3303)を見出すことができた。

なお、書庫での実際の作業は配架された写本を端から端まで仔細に点検し、写本をひとつひとつ開いて内容を確認していったのであったが、これは一回あたりの請求点数が限られている一般閲覧室での作業にくらべ格段に効率が良く、出張期間が極めて短く同図書館での調査時間も2日程度しか確保できていなかった私としては大変ありがたいことであった。


2.3. ハルトマン収集中央アジア・新疆由来写本簡紹

ハルトマン収集になる中央アジア・新疆写本については良く整ったリストが存在することもあり、また筆者の調査した写本類も全体のごく一部を占めるに過ぎない。よって本稿では閲覧の便宜のために1904年のリストの写本番号と現在の請求番号の対照表を示すこととする(表参照)。そしてここでは筆者が閲覧の機会を得た歴史資料類を大きく4種類に分かち、それぞれの名称と、ごく簡単な内容の紹介を試みたい。


A. カシュガル・ホージャ家(Makhdumzada)関連の史料・聖者伝

17-18世紀に東トルキスタンで強力な宗教権威を有したカシュガル・ホージャ家の聖者たちの活動に関連する史料群は、当コレクションのなかでも最も注目されるジャンルである。先に述べたとおりこれらの史料はハルトマン自身が『イスラームのオリエント-報告と研究』(1905)で利用しており、当該テーマ研究の根本史料とも言うべきTadhkira-i 'azizanはじめ、価値の高い写本が揃っている。

A.1. ホージャ伝 (Tadkira-i 'azizan)(MS.orient.4°3292 / 290p. ; 4°1313 / 202p.)
*カシュガル・ホージャ家研究の根本史料。当史料に関する詳細は澤田稔の研究を参照されたい 。

A.2. ホージャ・ハサン伝(MS.orient.4°1316 /98p. ; 8°1655 / 238p. ; 8°1685 /476p.)
*カシュガルの著名な聖者廟を以って知られるホージャ・アーファーク(Khwaja Afaq)の息子のひとり、ホージャ・ハサン(Khwaja Hasan)の伝記。河原弥生の研究によればホージャ・ハサンの伝記としては大きく2つの系統が存在し、当コレクション中のMS.orient.4°1316は河原が『ムフリスたちの秘密(Sirr al-mukhlisīn)』と呼ぶ所の写本群に属し、ほかの2写本MS.orient.8°1655とMS.orient.8°1685は『愛しきものたちの秘密(Sirr al-ahbab)』と呼ばれる写本のカテゴリーに属する。内容は前者がアーファークとハサンの伝記の合本であるのに対し、後者はハサン自身の生涯を伝えたものであると言う 。

A.3. ホージャに関する韻文史料(MS.orient.8°1663 88p.)
*著者不詳、執筆年は1241(1825-26)年。全編を通じ韻文で複数の聖者、ホージャたちの物語が綴られた作品である。3頁目にはマザール倪下(Hazrat-i Mazar)すなわちホージャ・アーファークの父ムハンマド・ユースフ(Muhammad Yusuf)の名前が見え、また第5頁には「系譜詩の理由(sabab-i nazm-i nesbat nama)」という朱書きがみとめられる。前半は正統カリフの名前やTadhkira-i azizanとも共通するホージャとサトゥク・ブグラ・ハーン(Satuq Bughra Khan)の血統上の関係が紹介され(-p.42)、それ以降はマフドゥーミ・アーザムからムハンマド・ユースフ、そしてその子孫の婚姻関係を中心に内容が展開されている。以上の点から本書はカーシュガル・ホージャ家白山統(アーファーク統)の系譜を韻文で追う形で著した作品であると考えられる。特に興味を引く点としてはムハンマド・ユースフのコムル王との婚姻を通じた関係(p.49)や、ムハンマド・ユースフ以降の婚姻関係、子孫たちの名前などが比較的詳しく紹介されていることなどが指摘でき、こういった記事は後述する系譜書とあわせ、カーシュガル・ホージャ家の系譜を検討するうえで一定の価値を有していると言える。

A.4. カシュガル・ホージャ家の系譜書(MS.orient.8°1692 / pp.158-167)
*著者はカーリー・アブド・アルジャリール(Qari ’Abd al-Jalil b. Mir Salih)で、カシュガル・ホージャ家の血統を紹介した系譜書である。マフドゥーミ・アーザム(Makhdum-i A’zam)から19世紀後半の世代の子孫に至るホージャたちとその妻、娘などの人名、没年が記されてある。おびただしい人名が紹介されており、こちらもカーシュガル・ホージャ家の系譜研究上有益である。当写本はハルトマンが利用し、佐口透、嶋田襄平の研究でもハルトマンの著書から引用する形で当史料を利用している 。

A.5.マフドゥーミ・アーザム伝 (MS.orient.8°1719 326p.; 8°1680 168p.)
*ペルシャ語原典の摘訳でタイトルは『聖者集成? (Majmu’at al-muhaqqiqin)』。東トルキスタン来往の事実はないもののカシュガル・ホージャの始祖とされるマフドゥーミ・アーザム(Makhdum-i A’zam)ことアフマド・カーサーニー(Ahmad Qasani)の伝記。本書のチャガタイ語写本はほかに大英図書館に一写本が存在する(Ms.IOL Turki 7)。



B.その他の聖者伝、マザール関連の文

B.1.ホージャ・ムハンマド・シャリーフ伝(MS.orient.4°1297 / 108p.)
*ヤルカンドにその聖者廟があり、スルタン・サトゥク・ブグラ・ハン(Sultan Satuq Bughra Khan)の墓廟発見の奇蹟で知られる聖者ホージャ・ムハンマド・シャリーフ(Khwaja Muhammad Sharif )の伝記。詳しくは濱田正美の研究を参照されたい。

B.2.新史(Kitab-i tarikh-i jarida-i jadida)(MS.orient.8°1670 / 272p.)
*著者クルバン・ガリー・ハリディ(Qurban Ghali Khalidi)。トゥルファンから北方の聖跡案内書。詳細は濱田正美の研究を参照されたい 。

B.3.サトゥク・ブグラ・ハン伝(MS.orient.8°1724 / 322p.)
*カラ・ハーン朝の君主で、テュルク人の君主で初めてイスラームに改宗したといわれるサトゥク・ブグラ・ハン(Satuq Bughra Khan)の改修譚。詳細は羽田明、濱田正美の専論を参照されたい 。

B.4.スト・パシャ(Sut Pasha)伝(MS.orient.8°1727 / 16p.)
*著者(copiest?)ムッラー・アイサ(Mulla ‘Aysa), 1252年。ヤルカンド東郊のスト・ビービー・パードシャー・マザール(Sut Bibi Padshah mazar)の聖者伝。預言者ムハンマドからブービム・パードシャー(Bubim Padshah)ことブービー・ウマイヤ(Bubi Umayya)をへてアイクム・ブラク・パードシャー(Aykum Bulaq Padshah)に至る血統が紹介され(pp.3-5)、ブービー・ウマイヤが聖者の告知によりメッカ巡礼に赴き、やがて再び聖者の告知によってヤルカンドに帰還して95歳で没し、その墓廟がスト・ビービーと呼ばれるに至った由来までが紹介されている。同様の写本はスウェーデンのルント大学図書館のヤーリング・コレクション中にも見出される(整理番号Prov.6)。



C 職業別祈祷書(リサーラ resale)
*中央アジア全域で少なからず見出される職業別の祈祷書。ギルドの書であるとの説もあるが伝統社会におけるその実際の使用形態についてはなお検討の余地がある 。

・理髪師(MS.orient.8°1652 / 60p.)
・靴工(MS.orient.8°1654 / 84p. ; 8°1672 / 78p.)
・農夫(MS.orient.8°1656 / 98p. ; 8°1700 /96p.)
・織工(MS.orient.8°1657 / 50p.)
・羊飼い(MS.orient.8°1658 / 46p.)
・商人(MS.orient.8°1659 / 36p.)
・香辛料商(MS.orient.8°1674 / 120p.)
・馬具工(MS.orient.8°1701 / 72p.)
・染色工(MS.orient.8°1703 / 92p.)
・鍛冶屋(MS.orient.8°1710 / 187p.)



D. その他

D.1. 無名 (MS.orient.8°1667 84p.)
*著者ムハンマド・アリー・カーシュガリー(Muhammad 'Ali Kashghari), 書写年1291(1874-75)年。19世紀のヤークーブ・ベグ時代の出来事を韻文でつづった史料。

D.2. 離婚記録簿 (MS.orient.2°3296 /42p)
*ヒジュラ暦1308年ラビー・アルアーヒラ月4日(1890年11月17日)から1311年ムハッラム月24日(1893年8月7日)までのおよそ3年分、168件ほどの離婚記録である。地域はカシュガル地区東北部の地名が散見され、この地域の離婚案件の記録台帳(いわゆるデフテルdaftar)ではないかと考えられる。もしこの推測が正しければ対応する一枚紙の離婚文書も当然存在したはずであり、台帳の記事と一枚紙文書の記載内容との書式比較、当地の離婚手続きのプロセスなどにつき、当史料を活用した今後の研究が期待される 。
 
D. 3. トゥルファンの商売台帳 (Ms.orient.2°3303)
*当写本はおそらくは何者かによって1930年代以降に将来されたものと考えられ、ハルトマン収集のものではない。同写本は袋とじで、鉛筆で全てのページに番号がふられており、全部で109ページほど。ただし当写本はもともとばらばらの書きつけであったものを後で綴じ合わせたものらしく、取り引きの個別案件の冒頭に書かれる期日が頁単位で前後していることがある。寸法はたて343mmよこ230mmである。頑丈なカバーに綴じあわされており、表紙には「21年7月25日トフタ・アホンの取引に関し[書き]とめた[記録] (yigirme birinchi yili yettinchi ayning yigirme beshi Tokhta Akhun ning ma'mile toghrasidin tutqan )」と、タイトルと思しきテキストが書かれた紙が貼り付けられてある。記年についてはカシュガル、ホタン両地区での文書の記載例に照らすならば、この21年は「民国」21年、すなわち西暦1932年と考えられる。「取引」は本書の中の記事に「布」という語が頻出することから、おそらくは布の取引に関する帳簿なのであろう。登場する地名はトゥルファン、ルクチュン、カラ・ホージャなどいずれもトゥルファン盆地を中心とする地名である。また登場する人々も鍛冶屋や蹄鉄工、ナン焼き(ここではナンチという呼び方をする)などさまざまな職種にわたっている。当写本は1930年代初頭のトゥルファン地方の社会経済状況の一端を示す資料のひとつとして今後の活用が期待できる。




3.ハレ所在のコレクション


所在地  Bibliothek der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, Mühlweg 15, 06114 Halle, GERMANY
URL http://www.bibliothek.uni-halle.de/zweigbib/zbht_1.htm
e-mail ha1@bibliothek.uni-halle.de



3.1. 概要と収蔵状況、カタログ

ベルリンのハルトマン・コレクションがハルトマン収集になる写本のコレクションであるのに対し、ハレのドイツ東洋学会図書館に所蔵されるコレクションはハルトマン自身の残した書簡やノート、断片的な資料や論文、著書の草稿などからなる膨大な紙の集積であり、資料コレクションというよりはアーカイヴと言う呼び名が相応しい代物である。このコレクションがいかなる経緯で現在の所蔵先に収められ、今日に至ったかという詳細な事情については迂闊にも筆者は聞き漏らし現時点では不明である。ただ同図書館のウェブサイト(上述)によれば東洋学会図書館の開設は1845年にさかのぼるとのことであり、あるいはドイツの権威ある学会所属の図書館として、研究者のこの種のアーカイヴの保管が一般的に行われているのかも知れぬが、それはまったく筆者の推測の域を出ない。

さて、当コレクションについては、その整理者にしてハルトマン書簡集の編者であるハニッシュ(L. Hanisch)が『イスラム世界(Die Welt des Islams)』誌に短い紹介を載せている。それによれば当コレクションの収録範囲は1866年7月、すなわちハルトマン15歳の頃ものを最古層としており、それ以降、すなわち研究者としての人生の全期間に作成された文書類がほぼすべて含まれており、その内訳は著作の草稿、講義録、書類、ノート、書簡などからなる。とりわけノート類はハルトマンの幅広い関心を窺わせるものであり、クルド、シリア、アフガン、モンゴル、カルマク、満洲、中国、ウラル・アルタイ、そしてチャガタイなどのラベルが見られ、また旅のノートも広範な活動範囲を反映してエジプト、シナイ半島、スペイン、ロシア、ギリシャ、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、シリア、トルコ、そしてトルキスタン等の地名が見られるのだという 。

当コレクションのドイツ東洋学会図書館における所蔵状況は、同図書館の地下書庫に、ファイルのサイズに合わせた数種類の規格のダンボール箱に入れて保管されている。ファイルの合計は256ほどであり、それは書簡(Korrespondenz)、(A)ノート類、(B)フラグメント類の3つに分類される。整理者のハニッシュ博士に1998年に直接伺ったところによれば、この3分類は単純に物理的な形状から判断し分類したとのことである。すなわちハルトマンが受領した手紙(と送信した手紙のカーボンコピー)はすべて「書簡」に、綴じられたノートブックは「A」に、その他のばらばらの紙や原稿類は「B」に、という具合である。ノートに貼り付けられていた書簡についてはそこから手紙をはがし、「書簡」のファイルにいれ、かわりに「書簡」のファイルに移した旨のメモを貼り付けたとのことであった。またカタログはハニッシュ博士がソフトウェア「ファイルメーカーPro」で作成したデータベースがあり、それに基づいたカタログが閲覧に供されているが、2004年の時点ではそれが公刊された形跡はみとめられなかった。


3.2.書簡(Korrespondenz)

書簡は個人と団体の2種類に分類され、個人の書簡の場合はそれぞれフル・ネーム、肩書、地名、書簡の点数、日付などが整理用に記録されており、それがB4サイズ相当の大きさのボール紙の箱にアルファベット順に配列され収められている。
 これら書簡のうち、新疆~中央ユーラシアに関連に関係するものとしては以下の人名(組織名)を見出すことができる:

(個人) Arif Niyaz Muhammad ; Barthold, V.V. ; Ross, Denison. ; Engval,S.(Swedish Mission) ; Giese, Friedrich ; Le Coq, A. ; Macartney,Sir George ; Minorsky, V. ; Petrovsky,N. ; Radloff, F.W., ; Vambery,A.
(団体) Svenska Missionsforbundets Expedition, Stockholm ; Turfan Komitee

最初にあげたArif Niyazなる人物は前述のハルトマンの著書『イスラームのオリエント-報告と研究』(1905)中の一章「イスタンブルの中央アジア人("Zentralasiatisches aus Stambul", pp.103-146)」に登場する新疆アクスの出身者であり、ハニッシュ博士に直接伺ったところでは1901年にイスタンブルでHartmannのインフォーマントとなった人物とのことである。ともあれ、この書簡類から20世紀初頭、新疆、中央アジア研究で活躍した著名人たちとハルトマンの交友関係が窺われ、書簡を通覧することで、当時の研究事情の一端を窺い知ることがあるいは可能かもしれない。次の部分では、あくまで断片的ではあるがそれら書簡のうちデニソン・ロスとマカートニーに関わる書簡を紹介してみよう。


(1)デニソン・ロス(Denison Ross)との往復書簡

「書簡」には英国の傑出した文献学者であったロスとハルトマンがやり取りした手紙6通が含まれており、これらは当時の東トルキスタン文献研究事情を窺わせる興味深い内容を含むものである。

この書簡はロスによる英文の手紙3通とハルトマンによる独文の手紙の控え(カーボン・コピー?)3通からなる。その大雑把な経緯は次の通りである:

1908.2.23(ハルトマン):『中国領トルキスタン』をロスに送る
1908.3.26(ロス):礼状と最近のインドでの写本研究状況についてふれ、とくにホージャからヤークーブ・ベグ(Ya'qub Beg)政権にいたる事情を述べた史料と、ムハンマド・ニヤズ(Muhammad Niyaz)書写のTarikh-i rashdi チュルク語訳本について紹介。
1908.6.18(ロス):ふたたび史料写本について。ムハンマド・ニヤズ(Muhammad Niyaz b. ‘Abdghaffar)の著作について述べる。本書は全部で214葉からなり、f.185-187ではワリー・ハーンについてうたったカシーダ、188-214はトゥンガン蜂起からヤークーブ・ベグの死までを扱うものだという。
1908.7.6(ハルトマン):返事。
1910.9.13(ハルトマン):『グジャラートのアラブの歴史』(英文)を送付?
1910.11.17(ロス):礼状。

ロスが先に言及したムハンマド・ニヤズ書写のTarikh-i rashdi チュルク語訳本は、その10年前に出版したTarikh-i rashdiの英訳本(Elias,N. & Denison Ross, A History of the Moghuls of Central Asia. London, 1898)の底本となったテキストであり、現在は大英図書館東洋・インド省コレクション(The British Library, Oriental and India Office Collections)にMs.Turki 1の番号のもと収蔵されている一写本をさす。問題はその次の書簡で言及されているムハンマド・ニヤズ(Muhammad Niyaz b. Abdghaffar)なる人物の著作である。今日、ここで言及されている写本の所在は管見の及ぶ限りでは知られていない。「ワリー・ハーンについてうたったカシーダ」そして「トゥンガン蜂起からヤークーブ・ベグの死までを扱う」内容から、あるいはこのテキストこそがRoss, E.D., Three Turki Manuscripts from Kashghar (Lahore, 1908)のオリジナルではないかと想像されるのであるが、この写本の所在は現在不明である。


(2)マカートニーにあてた書簡

20世紀初頭カシュガルの英国総領事を務めたジョージ・マカートニー(Sir George Macartney)に関連する書簡も同コレクションには含まれている。本書間はペルシャ語と英訳(タイプ)からなる書簡で日付は1322年シャーバーン月6日(1904年10月16日)である。以下に英文の全文をあげる。

George Macartney, Esquire,C.I.E.,
Kashgar.

Sir,
When Professor Hartmann of the Berlin University came to Yarkand, he ordered me to prepare a Turki Dictionary with Persian equivalents, in 10 Chapters. He fixed a sum of Tengas 120/ - for myself for compiling, and of Tengas 30/- for copying, each Chapter. He asked me to send each Chapter, when ready, to Mr.Backlund* in Kashgar, who would pay me the fixed amounts. According to this arrangement, I prepared, with much difficulty in six months, three Chapters and sent them by son to Mr. Backlund. The latter sent a message to me that Professor Hartmann had left no money with him, and that when Mr. Backlund received any money, he would send it to me.

The cost of three Chapters amounts to Tengas 450/ - out of which I have received Tengas 30/- I shall be very grateful if you will be kind enough to get me the remaining sum (Tengas 420/-)

Yarkand: (sd.) Mulla Arab Shah
The 6th Shaban 1322.

*Mr.Backlund died in the autumn 7 1903.


当書簡はハルトマンが新疆を訪問した際に東トルキスタンのチュルク語とペルシャ語の対訳辞書をムッラー・アラブ・シャー(Mulla Arab Shah)なる人物に作成依頼をし(おそらく書写依頼であろう)、その作業の進め方、謝金の支払い方などについてムッラー・アラブ・シャーがマカートニーに確認の手紙を書いたものが、おそらくはマカートニー経由でハルトマンに落手したものであろうと推測される。ちなみに1904年当時の450テンゲの価値については、この同じ年にカシュガル市内コザチ・ヤルベシ(Kozachi Yarbeshi)で取引された5部屋からなる家屋(besh ishiklik oy)の売却価格が「400テンゲ」であったことに照らすならば相当な高額である 。


3.3. ノート類(A)

 Aはハルトマンの研究ノートである。件名で分類されているが、必ずしもアルファベット順になっているわけではない。筆者が注目した中央アジア~中国関係のノート類は以下の通りである:

A59-71 Turkestan I-XIII 新疆旅行、研究関係のノート(全4000項目余)
A72 Turkestan/Register(256pp.)上記ノートの索引(未完)
A101 Cagataisch I: gearbeitet mit ’Arif Nijaz Muhammed aus Aqsu(1901), pp.1-93
A102 Cagataisch II: gearbeitet mit ’Arif Nijaz Muhammed aus Aqsu(1901),pp.93-181
A121-124 Turki I-IV (931項目)
A132-141 Sinica
A142 Der Islam in China

これらのノートのタイトルはハルトマンが利用した資料類に書き込まれたタイトルと対応関係にあるようである。たとえば先に紹介したベルリン所在の写本を仔細に観察すると、それぞれ最初の頁には所蔵機関が付したと思しき手書き請求番号のほかに、"Turki XX"のような番号が記入されている。また後述する断簡類にも"Turkistan XXX"のような番号が等しく記入されている。この番号はおそらくハルトマンが自身の研究の便宜のために付したものであろうと考えられる。当然ながらこれらのノートはすべて手書きのドイツ語で書かれてあったため、遺憾ながら筆者はその内容の検討を行っていないが、コレクション中の資料を詳しく検討する上でこれらハルトマンのノートは一見の価値があるであろう。


3.4. 断簡、原稿類(B)

 Bはハルトマン収集になる、ベルリンのコレクションには含まれなかった一枚紙の文書や断簡などの資料と、ハルトマン自身の知的生産活動の痕跡である原稿類からなる。筆者が注目したものを以下に挙げる:

B157 『イスラームのオリエント-報告と研究』(1905)の草稿ならびにゲラなど。ハルトマン自筆のホジャの系図も含まれる。
B165 中文文書類
B171 雑誌Terjmanからの手紙(リトグラフ)
B174 カシュガル露清銀行開設を告知するビラ(1900年10月)
B175 テュルク語文書
B180 Quwa’id al-Arabiya
*著者Mulla ’Abd al-Qadi Kashghari ‘Aysa Akhond oghli(1324/1906, 207pp.)
B183 テュルク語文書断簡(付印章2点、断片的)
B184 ヤルカンド将来テュルク語の韻文2葉
B185 Huelle A: テュルク語文書
 ・1242年Id-i qurban月6日 / 1827年7月1日 カシュガル(遺産譲渡)
 ・1242年Id-i qurban月8日 / 1827年7月3日 カシュガル(不動産売却)
 ・1258年Rabi’2月23日 / 1842年4月5日 カシュガル?(遺産係争示談)
 ・1264年Jumada 1月29日 / 1848年5月3日 カシュガル(不動産売却)
 ・1313年Rabi’1月8日 / 1896年2月22日 カシュガル(委任)
 *上記5点をふくむ多数の断簡類。5点の文書はいずれもカシュガルのカーディ認証印入りの 
 契約文書類であり、その資料的価値は高い 。
B185 Huelle B?: オスマン語文書
B186 預言者の事跡に関する聖者伝
B187 テュルク語断簡(内容不明)
B188 テュルク語断簡(祈祷)
B189 テュルク語断簡(祈祷)
B191 ペリホン(呪術師)に関するテュルク語断簡とノート
B192
 (A?)中文文書類
 *護票ならびに「論喀什阿巴和加麻札大略」等を含む。
 (B)テュルク語断簡
 *1864年ホタン蜂起に関する韻文3点を含む。これら韻文はホタンに現存する「アブドゥラフマン・ハン叙事詩(Abdurahman Khan Dastani)」の初期の形を伝えるものとして一定の史料的価値がある 。
 (E)テュルク語断簡
 *ヤルカンドのマハッラリストなどを含み、ヤルカンドの伝統的都市像の把握に有用。
B194 印章の型(蝋に押したもの4点)
B269 「日本とイスラーム(Japan und der Islam)」草稿(22pp.)



4.お わ り に

筆者のドイツ所在のハルトマン・コレクションについての紹介は以上である。なにぶん筆者の史料読解能力の低さ、ならびに関心の偏りのため十分意を尽くした紹介とは言えぬが、欧州にもまだまだ我々の調査を待つ新疆関連史料は少なくなく、なお調査研究の沃野が広がっているということをご理解いただければ幸いである。

それにしてもなかなか納得できぬのは、どうしてかくも豊富で整った、筋の良い資料が今日に至るまでドイツ人-欧米人に注目されなかったのか、と言うことである。1998年に筆者はその質問を不躾にもベルリンのバルダウフ(Ingeborg Baldauf)フンボルト大学教授にぶつけたのであったが、納得の行くご返事はいただけなかったように記憶している。また、ハルトマンの文書類を整理し、書簡集の出版を手がけられたハニッシュ博士は、ハルトマンが気難しく、なかなか人と交わらない人間であったため、結局後継者が得られなかったことが彼の仕事を忘却させてしまった原因ではなかったかと筆者に語られた。しかしハルトマンの著作が彼自身の死後も版を重ね、今日なお一定の評価を受けている以上、そういった指摘が当を得ているとは言いがたい。

結局のところ、新疆、中央アジアという地域は欧州からはあまりにも遠く、そういった地域に関する写本文献などは、我々が思っているよりはるかに彼の地での評価・関心は低いのではないか。先に紹介したように、アラビスト、中東イスラーム研究者としての活動のみが注目され、中央アジアや新疆についての仕事が一言半句も紹介されないハルトマンの今日の評価がそれを如実に物語っているように思われる。


関連記事: Arabistik and Arabism:The Passions of Martin Hartmann

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