所  載 『アジ研ワールド・トレンド』2005年1号、28-31頁。
HTML版公開 2008年11月17日
最終更新 2008年11月20日

ウイグル人と大日本帝国


付記
本稿はもともとはフィロロジカルな関心からスタートして、その後に縁あって故鷲見東観氏にお目にかかったり、東京外語大の移転先のすぐ傍らに多磨霊園(数名のウイグル人亡命者の墓がある)があったりという偶然に導かれるなかで書くことになったものである。あくまで思いつきのエッセイに過ぎず、人名を取り違えるなど間違いも散見される。しかし、思いがけないことにこのエッセイの受けは悪くなく、結果アルマトゥでの学会でウイグル語でこの話をしたり、またアラビア文字、キリル文字両方のウイグル語で雑誌に掲載されたり(ただし、キリル文字のほうは詳細な註をつけてやや学術論文らしく加筆修正を施している)、はてはRFA(Radio Free Asia)で紹介されるなどの悲喜こもごもの(?)余波があった。また故竹内義典氏のご遺族から連絡をいただき、ご生前のことなど伺えたのも存外の喜びであった。そういうわけで、故鷲見東観氏、そして本稿に注意を払ってくれたすべての方にここで感謝申し上げたい。


今にして思うに、どちらかといえばこういうテーマにおける私の関心は、私たちのように新疆やウイグル人に関心を持つ方が戦前にもおられたこと、その方々が時代の(往々にして邪な)流れとどう折り合いをつけて、どのようにその好奇心を育み行動していったかという点にあるように思われる。そういうスタンスからならば(所詮片手間だけど)この時代についてもう少し勉強してみるのも悪くないかな、というのが昨今の私の偽らざる新疆、いや心境である。


ある古書から

今、私の目の前に一冊の古書のコピーがある。それは鷲見秀芳『中央アジア・トルコ語ーカシュガール方言の研究ー』(東京・龍文書局、一九四四年)なる一書で、おそらくわが国で初めて新疆・カシュガル地方のことばを記述した文献である。私が初めて現代ウイグル語を学び始めた頃に同学の先輩の蔵書からコピーを取らせていただいたもので、第二次世界大戦の真っ最中にこのような本が日本語で出ていたことを知って驚きを覚えたものだった。

本書は菊版の二分冊で本編と別冊のテキストからなっている。本編は序説、文法、読本、そして付録として語彙と各種の表(地名、トルコ語ならびに「カシュガル語」の変化表)という比較的整った構成となっており、別冊は本編の例文をすべて手書きのアラビア文字で書き出したものである。

本書は今年で出版から六十年が経過し、その内容は現在新疆で使用されている「現代ウイグル語」とは文字・綴りが異なり、また記述されてある文法も些か古臭い感じがする。しかし、視点を変えて本書を一つの歴史的記念品ー二十世紀前半の「大日本帝国」とウイグル人の関係を窺い知る一つの手がかりと見なし、別ルートの文献、史料を手繰ってみると、今まで知られなかったウイグル人と日本、いや「大日本帝国」との関わりがおぼろげではあるが浮かび上がってくる。

話は一九三〇年代に遡る。


注視されていた新疆

満洲事変(一九三一)、つづく満洲国の建国(一九三二)によって日本が中国東北部にその勢力を拡大していた頃、新疆では一九三一年に勃発したハミ(コムル)の武装反乱を皮切りに、一九三二年にはトルファン、一九三三年にはホタンと、各地でトルコ系イスラーム教徒定住民(ウイグル人)の反乱が相次いだ。なかでもホタンで周到な計画のもと行われた反乱は「アミール」(将軍)の称号を帯びたムハンマド・イミン・ブグラが主導し、ホタンの中国勢力を一掃してウイグル人政権を樹立することに成功した。やがてこの勢力は西のヤルカンド、カシュガルへ進軍し、これにカシュガルの民族主義指導者たち、当時カシュガルにあったトルファン蜂起の亡命指導者たちなどが合流して、一九三三年十一月に「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立が宣言された。しかし、この「共和国」は複数の反乱勢力の寄り合い所帯の観が否めず、国家体制を維持する基盤に欠け国際的な認知もなく、かつ軍事的にも脆弱性を抱えていた。それゆえに一九三四年二月に東から転戦してきた馬仲英の東干(現在の回族)軍がカシュガルに侵入すると、共和国は為すすべなくあっさり瓦解した。

この一九三一年から一九三四年に新疆で発生した反乱と独立運動は、結局いずれも道半ばで挫折することとなったが、この頃の新疆情勢を日本政府がこのうえない関心を持って注視していたことはあまり知られていないであろう。その形跡を我々は政府公文書のなかに見ることが出来るのである。

当時の日本政府の動きを把握する資料である政府文書類、特に外交文書類は外務省・外交史料館に収められており、現在その文書類はインターネットを通じ検索、閲覧が可能である(アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/ )。試みに検索サイトにアクセスし、「新疆」と言うキー・ワードで検索を行うと、実に二五七件の文書がヒットする。さらにそれを詳しく見ていくと、『新疆政況及事情関係雑纂』(以下『雑纂』と略記)なる全九巻からなる大分のファイルが見つけられるはずである。このファイルは時期にして大正十五年(一九二六年)五月から昭和十九年(一九四四年)十二月までの約二十年がカバーされ、そのボリュームは合計約七千五百頁に及ぶ。そのうち東トルキスタン・イスラーム共和国の独立運動が過熱した昭和八年(一九三三年)以降の文書が約七千三百ページと全体のボリュームの九十七%を占めており、明らかに日本政府がその頃から新疆情勢への注視を強めていったことが窺われるのである。



『新疆政況及事情関係雑纂』の内容

『雑纂』の内容の大半は外務省本省から各国在外公館に対し発せられた新疆関係の訓令(概ね具体的なトピックに関する調査依頼)、各国公館から寄せられた新疆関連情報、添付資料(ムハンマド・イミン・ブグラの手記の翻訳や東トルコ語の著作、雑誌、欧文文献、新聞の切抜、さらに詳細な都市地図、新疆省政府の訓令、新疆省政府の詳細な予算案書類など、明らかに非合法に入手したと思しき資料も複数含む)、当時中国に駐留していた陸軍から提供された新疆関連情報、さらには日本にやってきた新疆に関係する人士の動向に関する報告書も含まれている。当時中国政府の役人は新疆との間を行き来するのに、危険の多い内陸ルートを避けていったん天津から日本の神戸に渡り、鉄道で福井県の敦賀に移動し、そこから船でウラジオストック(文書中では「浦塩」と記載)に至りシベリア鉄道を乗り継いでアルマトゥ~イリ地方を経て迪化(ウルムチ)入りすることが多かった。当資料中には福井警察署長名で福井から出入りした中国政府の役人名が細かく報告されており、そのなかには動乱の新疆を活写した名著Turkistan Tumult(邦題『新疆紀遊』)の著者として知られるAitchen Wuこと呉藹宸の名前なども見ることができる。


『新疆政況及事情関係雑纂』

アジア歴史資料センターRef.B02031843400ほか

当時、新疆の周辺地域に位置する諸国に配置された日本国の在外公館(代表的なものとしてはアフガニスタンのカーブル、インドのシムラとカルカッタ、ソ連領のノヴォシビルスク、そして中国の上海など)は新疆関連の情報を本省に送致するばかりでなく、新疆の独立運動家たちとも接触を保っていた。特に「東トルキスタン・イスラーム共和国」壊滅後、その指導者たちが続々と国境を越えインドやアフガニスタン、トルコ、エジプト、さらには上海、東京まで亡命すると、日本政府は各地でこれらと積極的に接触し、新疆地域の情報の収集に努めていたのである。

アフガニスタンのカーブル領事館には「アミール」ことムハンマド・イミン・ブグラが頻繁に出入りし、自らが書き表した手記を提供するなど積極的に日本政府の情報収集に協力していた。『雑纂』には「ホタンのアミール」の「直話」とされる情報がおびただしく収録されており、ことあるごとに新疆の情勢に関する説明と分析をムハンマド・イミンが行っていたことが窺われる。

またシリア生まれのアラブ人で一九三三年の蜂起の際にはカシュガルで軍隊の指揮をとったタウフィク・バイ(文書中では「トゥフィク・エル・シェリク」)の記事も多数見ることが出来る。タウフィク・バイは昭和十一年(一九三六年)に来日を果たし、外務省の担当者、ならびにときの外務大臣有田八郎とも会見して新疆情勢に関する意見を述べるとともに、対回教徒工作に関する具体的な方策を提示さえしている。それらの成果がどれほどのものであったかはいささか疑問ではあるが、一九三○年代のムーヴメントに関わった重要人物が日本政府と比較的緊密な関係を持っていたことは記憶されてよいであろう。



マフムード・ムヒーティ一行の来日

一九三六~七年ごろの新疆情勢に関し、当時の日本政府の注意は当時のカシュガルにおけるキー・パーソンともいうべき軍司令官マフムード・シジャン(師長)ことマフムード・ムヒーティの動向に向けられていたようである。マフムード・ムヒーティはトゥルファン生まれのもと商人で、一九三三~四年の独立運動においては「共和国」の総統に推戴されたホジャ・ニヤズの下でハミ軍の司令官を務め、のち「共和国」崩壊後はウルムチの支配者盛世才と連携を取り結んだホジャ・ニヤズの下で引き続きカシュガル地区の総司令官を務めていた人物である。マフムードは当時ソ連との連携を強めていた盛世才に脅威を覚え、一九三七年四月にカラコラム山脈を越えインドに亡命することとなるが、日本政府はそのマフムードの動向を逐一探っており、中国大使館との接触を監視しつつ自分たちもマフムードとのチャネルを持っていた。日本政府当局はは盛世才からカシュガルの騎兵第六師団に宛てた訓令とマフムードの顔写真まで入手していたが、これはおそらくマフムード側から提供されたものであったろう。同年秋にマフムードは「メッカ巡礼」のためインドを出国し、イスタンブル滞在を経て翌年の一九三八年十月にインドに帰還した。しかしラホールで官憲とトラブルを起こし(もともとはマフムードの従者がマフムードの金品を持ち逃げしたことに端を発した事件であったらしい)、インド国外退去を余儀なくされ、そこで頼ったのが日本政府であった。

このマフムードの日本行きについては、実際にマフムード一行と密接な関わりがあった満鉄の竹内義典がごくごく簡単なものではあるがメモワールを遺している(竹内義典「ウイグル族との出会いと思い出」『アジア・アフリカ資料通報』第二十巻四号、一九八二年)、竹内の記事によれば、マフムードとその随員計十五名はまず上海に向かい日本領事館に支援を要請し、これが受け入れられ来日したという。『雑纂』によればそれは昭和十四年(一九三九年)五月のことであった。

マフムードと共に来日した「カシュガル騎兵第六師団」の亡命者たちについて、竹内氏はそのリストを示しているが、そのうち三名は他の文献からも裏づけが取れる。

まず挙げるべきはムハンマド・イミン・イスラーミー(カシュガル出身)であろう。イミンは来日後他のメンバーとは別に日本に留まり、現在の東京ジャーミーの前身である代々木「イスラーム寺院」(モスク)で当時イマームをつとめていたアブデュルレシト・イブラヒム(この人物については小松久男・香織共訳になる『ジャポンヤ : イスラム系ロシア人の見た明治日本』東京 、第三書館、一九九一年、に詳しい)の側近となり、アブデュルレシト死後暫くは代々木モスクのイマーム職にあった人物である(戦後ジェッダに移住)。イミンは文筆に長けた人物らしく、二点の著作が現存している。ひとつは東トルキスタン独立運動の経緯をまとめた『記憶(äslätmä)』である。本書はイミン自身が上海の日本国総領事館に提出した手書きのもので、東トルコ語書写本約四十葉が『雑纂』第九巻に収録されている。もうひとつは旅先で亡くなった独立運動同志の追悼集『異境に倒れた聖戦士たち(Muhammad Imin Islami, Muhajiratda yoqaltghan mujahidlarmiz, Tokyo, 1941,)』は日本語と東トルコ語の二言語合壁で書かれ、奥付の発行元住所から代々木モスクから出された出版物であることが分かる。

次にマフムードの次にランク付けされる「バイ・エジシイ」ことバイ・エズィズ(カシュガル出身)は、一行の一員と思しき「オスマン」なる人物と結婚した日本女性鈴木住子が戦後に出版した『チャードルの女』(日本週報社、一九五九年)では悪役として登場する。「解放」そして「文革」をへて新疆で天寿を全うした例外的な人物であり、そのメモワールが『新疆文史資料』に収められている(Bay Eziz. "Mähmut Sijaŋ bilän billä bolghan 12 yil,"Shinjaŋ Tarikh Materiyalliri 6, pp. 138-172.)。

もうひとり、トフタ・バイ(カシュガル出身)は日本婦人と結婚し、戦後は亡命者として日本で暮らし、昭和三十年(一九五五年)東京で病死した人物である。本人が語った新疆の文化状況、カシュガルでは富裕であったその家族が被った悲劇については戦後の雑誌に取材記事が掲載されている(トフタバイ「知られていない奇習ー回教民族の特殊な風俗ー」『毎日情報』第十号、一九五一年、五三ー五九頁)。

一行は東京で日本政府の支援のもと独立運動を継続しようと企てていたものと想像される。しかし、当時の日本政府の対応は冷たいものであり、彼らの活動成果ははかばかしいものではなかったらしい。竹内は東京におけるマフムード一行の活動として、一行が東京の英国大使館と接触したこと、その結果当局が彼らを「ていよく北京へ追い払った」ことをごく簡潔に伝えている。

一九三九年を過ぎた頃から『雑纂』の記事は激減する。これは日本政府が新疆情勢への関心を失ってきたことをおそらくは意味しているのであろう。当時は欧州で既に戦争が始められ、アジア・太平洋も戦争直前にあって平穏とは言いがたい状況にあった。要はもはや新疆などよりも、より切実な案件を処理するのに中央の政府機関は忙殺されていたのである。マフムード一行は結局日本政府の支援を得られず中国大陸に渡ることになる。



竹内公館

マフムード一行は代々木モスクに居残ったムハンマド・イミン・イスラーミーと日本人と結婚したトフタ・バイを除く十三名が日本を離れ、北京西単の哈密館(哈密郡王の北京別邸と言われる)に入り、のち内蒙古の厚和(現在のフフホト)、さらに奥地ウランファの牧地へと移動し、そこに当面の落ち着き所を得た。一行の大半はその牧地で羊を飼い生計をたてながら再起の機会を伺っていたとされる。

この時期日本政府が彼らと関係を取り結んでいたかどうかは『雑纂』に記事がなくしかと確認することは出来ない。しかし、当時中国北部に存在したいくつかの日本の現地機関は彼らの動向を把握しており、幾許かの関わりを有していた。たとえば一九三七年より満鉄調査部に勤務していた前述の竹内義典は一九四○年ごろには毎月厚和に出張し、マフムード一行と連絡を取り合っていた。やがてその関係からであろう、一九四三年には厚和に「竹内公館」という事務所を開設し、常時ウイグル人数名を寄宿させ、「ウイグル文化の調査研究」に従事していたと言う。「竹内公館」は満鉄内部では「厚和支所」の名で呼ばれるれっきとした満鉄の事務所であったが、対外的に満鉄が調査・研究は行っていないと言う体裁を繕うためにこの看板を掲げることとなったと竹内は説明している。
冒頭に紹介した『中央アジア・トルコ語』はまさにこの竹内公館開設後の時代に北京で書かれた本であり、著者である鷲見秀芳は本書の一部を竹内への献辞に割いている。鷲見のインフォマントとして紹介されてあるウイグル人も、あるいは竹内コネクションから紹介を受けたマフムード一行の一員だったかもしれない(事実として、マフムード一行の中にはヤーセン・カーリーなる鷲見のインフォマントに名前が酷似した人物がいた)。また、本書に満載された歴史学的にも一見の価値ある読本テキストの数々はおそらくはこうしたコネクションから竹内公館ないしは北京哈密館周辺で入手したものではなかったかと推測される。

「竹内公館」の開設目的は何だったのであろうか。竹内本人のメモワールにあるように、何はともあれ「設置」することが目的で、特別な理由もなかったというのは果たして本当だろうか。さらにそこで竹内は何をやっていてもよく、甚だ「気楽」なものだったというのも俄かには信じがたいのであるが。確かにメモワールの記事はウイグル人たちとの宴会(タマシャ)や言葉遊びのごとき、一面においていかにもウイグル人らしい思い出話がちりばめられいる。

しかし、華北(北京)を維持するために隣接する内蒙の維持が不可欠であり、内蒙の維持のために新疆のコントロールが必要であるという、かつて清朝がもちえたドミノ理論は当時の日本もつよく意識していたに相違ない。そうした認識に立つならば新疆動静の把握に努め、またその動向に影響を及ぼしうるキー・パーソンたちを自分たちの「カード」として確保しておくことは必要なことであったろう。竹内公館の開設は明白な理由のあることだったのである。



おわりに

周知の通り、一九四五年の日本の敗戦を以って大陸における日本の活動は終焉を迎えた。そしてかつて日本が持ちえた新疆・ウイグル人についての知見、人材、そしてコネクションは(ときのイスラーム研究などとと同様に)ほぼ断絶し、忘却され現在に至っている。かつてウイグル人は日本人にとり、良いか悪いかはひとまず措くとして国家戦略上の「カード」として相応の注意を払った存在であったが、現在はどうであろうか。我々は彼らをかつての日本人たちほど理解しているのであろうか?過去のことを思うに付け、私はそういう問いを発せずにはおれないのである。



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