所  載 澤田稔編『中央アジアのイスラーム聖地―フェルガナ盆地とカシュガル地方―』(シルクロード学研究vol.28)奈良:なら・シルクロード博記念国際交流財団/シルクロード学研究センター、2007年3月、67-78頁。
HTML版公開 2008年11月18日
最終更新 2008年11月18日

カシュガル地方における聖地伝承


1. はじめに

以下に紹介するのは、2005年8月に実施したカシュガル現地調査のなか、カシュガル地方の4か所の「聖地」で聴取した伝承のテキスト(Transcription)と和訳(Translation)である。

新疆のイスラーム聖地に関する伝承は、記述も研究も十分になされているとは言いがたい状況にある。一般に聖地に関わる伝承で、今日我々がテキストの形で目にすることができるものは、(1)歴史上のある時点でテキストに書き落とされ、聖者伝(Tazkira / Hagiography)の形で今日に伝わっているもの、(2)比較的近世、あるいは現代に主として学術的関心から口承伝承のテキスト化が行われたもの、の2種類が考えられるであろう。しかし、新疆においては両者ともに稀少である。

書物としての聖者伝については、文化大革命の影響もあり、現存する写本の絶対数がそもそも少ない。なかでも現存する聖地との関連が明白なものはきわめて少数である[1]。また、伝承のテキスト化も僅かな例外を除いてはほとんど行われた形跡が無い[2]。

当プロジェクトが注目するイスラーム聖地の文化的・歴史的重要性、そして経済発展に伴う世俗化が進行しつつあり、伝承を含む過去の「記憶」が急速に失われつつある当該地域の現状に鑑みるならば、聖地伝承の収集と記述はまさに喫緊の課題である。そして、そうした問題意識に立つならば、筆者が以下の部分で行う伝承のテキスト化と和訳の試みは一定の意義を有するものと考えられよう。

本稿で以下に示す4つのテキスト(A, B, C, D)は、いずれも今回の調査において「聖地」管理に関わるシャイフ、あるいはそれに順ずる立場のインフォマントから聴取したものである。これら各伝承はそれぞれ程度の差こそあれ、荒唐無稽な、歴史的にも矛盾した内容を含んでいる。中には同一の伝承中で矛盾した辻褄の合わない内容を含んでいるものもある。本稿ではありのままの伝承を将来の研究に供するため、こうした矛盾点(伝承の内容)に関しては一切編集を加えずに、極力聞いたままの内容を提示するように心がけた。一方で、筆者にとり研究上有用と思われた補足情報は、関連する部分に適宜注を設けた。

テキストはそれぞれ現地で筆者が持参したICレコーダーに音声を録音し、それをラテン文字に書き落とし、日本語訳を付したものである。音声のテキスト化にあたっては旧知のアブリズ・オルホン氏(新疆ウイグル自治区地方志編纂委員会)の全面的な協力を仰いだ。ラテン文字テキストの個別語彙の正書法は、基本的に現代ウイグル語の正書法に近づけるよう意を用い、ラテン文字転写規則は本書のラテン文字転写規則に従った。
 (このページではラテン文字転写は省略)

2. 伝承テキストと和訳

A.アフンルクム (Akhunluqum)の伝承

2005年8月22日、岳普湖県アフンルク(旧称「東方紅」)・イェザ、第1ケント、第1マハッラにて聴取。
インフォマント: Turdi Imin (Shäykh)


Turdi Imin Shäykh


A01. マザールの名はアフンルクム。[被葬者の]もともと[の名前]はモッラー・レヒムクル・ホジャである。ブハラの「ジェフディド」と言う土地から伝教のため[当地に]来た人物だ[3]。カシュガルを昔はハルバルの町と呼んでいたが、この人物は「私はハルバルの町に行って教えを広めます」と言ってカシュガルに来た。

A02. 彼らは3人兄弟で、これはアッパク・ホジャの兄で、1番目はモッラー・レヒムクル・ホジャ。2番目はアッパク・ホジャ。3番目はセイドワッカス・ホジャ-この人物の墓は広州にある。

A03. アッパク・ホジャにはイパルハンという一人の娘があった。彼女が18歳になったときに、内地の「ハーカーン」という町から来た2,3名の者がイパルハンを見た。そして彼らはハーカーンの町に帰っていって「友よ、お前の妻は妻ではないようだ。アッパク・ホジャのところにはたいそう美しい娘がひとりいる」と言った。ハーカーンの町の王の息子は「イパルハンを連れて来い」と言った。

A04. 王はカシュガルに使いを出して(これは国民党の時代のことらしいが)「娘を与えるならば(その娘と)我々は結婚する。与えなければ広場を整備しておけ、我々は戦おう」と言った。そこでアパク・ホジャは「戦うよりは娘イパルハンをくれてろう」とその妻と相談した。しかし、使節に対しては以下のような条件を出した。(1)われらの娘は我々の信仰にとどまる。(2)死んだらハーカーンの遺体もカシュガルに移送せよ。(3)娘の遺産にはカシュガル新城を与えよう。 (しかし、アパク・ホジャは)これを兄のモッラー・レヒムクルには言わなかった。

A05. モッラー・レヒムクルが礼拝から帰ってきたとき、メスジドのちょうど真ん中にひとりのアンディジャン人の娘がいた。その娘は財産豊富ながら独身であった。この女性をメスジドからいかなる王も出させることはできなかった。その地には道台という役人がおり、彼は「この女性を穏やかな方法でメスジドから出させる人がいるならば、この町の王権を与えよう。」と言った。

A06. モッラー・レヒムクル・ホジャは、「それはわたしがやろう。私はその女を打たないし、それを乞うこともしない。自分から出て行くようにしよう」すると道台は「本当に出すことができるならばお前たち2人兄弟にこの町を与えよう。」と言った。

A07. モッラー・レヒム・クル・ホジャは、「長くても10日で、短ければ5日で出して見せよう」と言って、「クルアーン・ケリムで『ラー・イラーハ』という言葉がある。メスジドはアッラーの家、アッラーの家でつばを吐けば、不浄なことをなさば、不義をなさば、ウェイルン・ドザクという地獄があるそうだが、このような人々はその地獄に永遠に煮殺されるであろう。と言った。

A08. これを聞いたくだんの女性は「おお、モッラー・レヒムクル・ホジャよ。我々も(そのように)死んでしまうのでしょうか?」と言った。(モッラー・レヒムクル・ホジャは)「我々は寿命のしもべである。アッラーは我々に3つのことを告げてはおられない。ひとつはいつ我々が死んでしまうかと言うことを、さらに腹の中の子供が娘か、息子か、そしてどこで生まれるのかと言うことも告げてはおられない。(そして)いつどんなことが起こるのかと言うことも告げてはおられないのだ。」と言った。

A09. 女性は「私がここに留まってから随分になります。私の家には礼拝をするものも、しないものも入ってきます。どうやら私は地獄行きがぴったりになってしまいましたね。私に別の家を示して家を用意してくださいな」と言った。そのため、エンジャン・サライというひとつのサライを設置してその婦人をその土地に移しておいた。

A10. このときにアッパク・ホジャが娘を結婚させるときとなった。モッラー・レヒムクルはアッパク・ホジャに「カシュガルの町はお前に残った。アッラーが返答を与えたのはおまえ自身だ。私も自分の知識を広めようとこの土地に来た。そしてこの土地で40年クルアーンを読んで過ごした。 石臼で粉をひき、馬を胡楊の枯葉で養って生活していたのである。

A.11. 40年になったときに胡楊の間から:「おお、モッラー・レヒムクル、そこから立て、イマームたちを導け」という声が出てきた。目覚めると誰も見えなかった。そのため、彼は礼拝を終えると石臼を馬に乗せて出発した。

A12. ヤルチャクティというところにきた。(それが)タクラマカンのハルバルの町であった。その弟セイドワッカスは広州に知識を広めるために去った。モッラー・レヒムクルの妻の弟の名前はバラット・アホン、その長男の名はイブラヒム・シェイフ、次男の名前はグレック・ソパであった。次男は夜通し「hu allah hu」と言って寝ようとしなかった。それでその父は「この子は実に信心深い人士(ソパ-)だ」と言うことでグレク・ソパーと名をつけたのである[5]。

A13. モッラー・レヒムクルはこの4名を「この地であなたたちは留まっていなさい。」と置いて、自分はヤルチャクティという所に来たときに縄が切れて石臼は割れて落ち、 馬の足に当たって馬は使い物にならなくなってしまった。 砂漠の後ろを見やればひとつの川が溢れんばかりであった。馬を水に入れてつないでおき、祈祷を読んで出ると馬は回復していた。これを見て水を見て「人々たちを癒すもの(ダワ)となってしまえ」と祈祷した。そののちこの池はダワ・キョルと呼ばれるようになった。

A14. この土地から出てタクラマカンの中に入った。この土地ではモンゴルたちがあった。モンゴルたちは彼を「放っておこう。あの人物の手から何が来るというのか」と言って放っておいた。彼はクルアーン・ケリムを読んでモンゴルたちに「「アッラーの他に神なく、ムハンマドは神の使徒である」とおまえが信仰を唱えるならば、お前の懐はお金でいっぱいになる。寿命も長くなる。私がなすようにおまえもしろ。アッラーはおまえに恵みを下されよう。辛苦して生きていくことは無い。」 と言って1年とどまった。

A15. 3年が過ぎてより後、このモンゴルたちから6人が「お前が言ったことは本当か?」と質問した。「アッラーのほか神無く」と言って「ムハンマド…」というのを承諾しなかった。彼らに農業の有益なること、アッラーの知恵を説明した。彼らはそれによってモッラー・レヒムクルの言ったようにして金持ちとなった。

A16. この7人のモンゴルが富裕になったことを見た残りのモンゴルたちはそれで信仰に入った。彼らは「アッラーに何を言えば「はい」と言うのか?」と言った。(モッラー・レヒムクルは)「そうとも、あなたが何を請おうとも(アッラーは)それを下さるのだ」と言った。「ならば我々のなべ釜を金に変えて見せろ」と言った。「よろしい。それは私には難しいがアッラーには簡単だ。それではお前たちは沐浴するがいい」といってモンゴルたちに沐浴をさせた。それから彼らはアッラーに懇願をなした。するとぴかりと光が生じるや、彼らの鍋、食器は金になった。しかし、このモンゴルたちは言葉をたがえて信仰告白を唱えることを拒否した。

A17. それでモッラー・レヒムクルは信仰告白をなした7人のモンゴルたちに「今晩は眠らぬように。40メートルほどの長さの棒を探しておきなさい。私はこれらの町を砂で埋めてしまうことを(神に)請求した」(と言った)。グルーグルと風が立つやいなや砂が飛んできてこのベルベルの町を埋めてしまった。翌日朝にメッカ・メディナでハズレティ・ビラルがバムダトの礼拝を執り行ったそうだ。(そこで?)砂嵐が止まって世界が明るくなった。みれば先だっての町を砂が覆い隠し、砂の上で件の7人の人が立っていた。野生の鳩たちも傷ひとつなくそこにあった。

A18. モッラー・レヒムクルは7人のモンゴルを率いてヤルカンドにつれてきて一夜宿泊して、サンドゥク・アグズィという土地に来た。その土地の人々は国民党時代に幅が40メートルから80メートルの板をつくり、(それで)箱(サンドゥク)をつくり、中に石を入れ、それを水に投げて我々の方に押し寄せる水を遮った。(モッラー・レヒムクルが)「その7人に水をください」と問うたところ、(その土地の人々は)「我々の王が水をやるなとおっしゃった」と言って水をやらなかった。

A19. モッラー・レヒムクル・ホジャは「どうあってもお前は水をやるべきだ」と言って杖を刺して箱に七箇所の穴を開けた。モッラー・レヒムクルはタシュマリクという土地から杖をを引いてすべての前で逃走した。残った7人のモンゴルに「後ろを見ずに逃げろ」と言った。彼らは7日7晩でテリムのポンクーという土地に来たところで疲労困憊してしまい、水に追いつかれてしまったようだ、と後ろを見たら足に水があった。

A20. モッラー・レヒムクルは「おいばか者たち。もともと水をお前たちの門前までもって来てやるつもりだったのだ。後ろを見るなと私が言ったのにお前たちは見てしまった。さあこの土地で農業をして耕作して暮らすがよい」と言った。その後この土地はテリムと呼ばれた。

A21. この土地で「7人のモンゴル(Yättä Mongol)」という土地がある。彼らはその土地で増えたのだ。マラルバシでもムガールという土地がある。(モッラー・レヒムクルは)「この後とても富裕になってしまったら、ひとつの時代が来る。お前の子供たち(に)紙の帽子をかぶせて、顔にすすを塗って、お前たちを打って殺す。おまえたちは貧乏になってしまい、子供たちは、ディワーネ、カランダル、と名を持つことになるであろう。」と言った。

A22. そののちチンギズ・ハンというものが出て「ホジャには金がある。ホジャを見つけろ、略奪しよう」と言ってきた。この地に来て「ホジャはいるか」と問うと人々は「いません」と答えたと言う。この間バラット・アホンと彼の妻が災難に遭った。

A23. モッラー・レヒムクルから6人の息子が残った。トフティ・ゴジャ、アナ・シェイフ、モマ・シェイフ、ザマン・シェイフ、などである。これらは増えて40数家族、480人になった。

A24. まさにその時、くだんのモンゴルたちがこの地に来て「ホジャはいるか」と問うと「いない」と答えた。彼らはそれを信じず「進め、入ってみろ」と言って一人のモンゴル人を入れさせた。この兵士はマザールを開いてみると大きなターバンを巻いた一人がクルアーンを読んで座っていた。その人物に「おまえがホージャか?」と聞くと、その人物は「いや、私はホジャではない、アホンだ」と返答した。この兵士は出て「一人のアホンがいた」と言って出た。モンゴルたちは「その人物がきっとホジャだ、捕まえろ」と言って周囲を包囲して入ると、くだんのアホンが杖を地面に突き刺すや、(アホンは)そのターバンにチャパンを着せて置いて消えてしまった。彼らは驚いて「何と偉大なる人間か」と言って「わがアホンよ(Akhunluqum)」と言った。

A25. チンギズ・ハンが来るまでモッラー・レヒムクル・ホジャは生きていた。彼は「私の後、23世代のシャイフが生きるであろう」と言ったと言う。私はすべてを知っている。1)モッラー・レヒムクル、2)イブラヒム・シェイフ、3)グレク・ソパ、4)アナ・シェイフ、5)モマ・シェイフ、6)ザマン・シェイフ、7)トフティ・シェイフ、8)ヘイト・シェイフ、9)カスィム・シェイフ、10)エイサ・シェイフ、11)アナ・シェイフ、12)ザマン、13)メフスト、14)レヒム、15)モマ、16)ザマン・シェイフ、17)ヘレク、18)トゥルディ、19)エイサ、20)イミン・シェイフ

A26. そして私の名はトゥルディである。このわが子の名はクルワン・シェイフ。われわれは自分たちのことをブハラリク(ブハラ人)という。いまある(政府設置の)標識にはヒンドゥスタンから来たと書いてある(がそれは誤りである)。この地にモッラー・レヒムクルの墓はない。彼は「未来に「メフスートの子孫はいるか」とお前たちを訪ねて来て会おう」との遺言を残した。「この土地から遠くに行くでない。 (私が来るそのときに)そこにおれ」(と。)



B.ブウィ・アナム(Buwi Anam)の伝承
2005年8月19日、疏附県ベシュケリム郷ベシュトグラクにて聴取。インフォマント:Sämätjan Mamut(26) 


ブウィ・アナムへの参道

B01. [このマザールのグンバズは]メットケリム・チョンという人物が建築した。私はその人物の6代後裔になる。今年私は26歳。名前はセメトジャン。父はマームット。祖父はセメットビラール、その父の名はソピー。6代前からこのブウィ・マリヤム・ヘニム・マザールの管理人をわれわれはしている。

B02. (ブウィ・マリヤムは)未婚で、カーフィルたちに対しジハードを行った女性だったそうだ。スルタン・サトゥク・ブグラハンの娘だそうだ。

B03. 戦をなして、敵に追走されてこのカルルクという土地に来たところ、ある麦刈りをしていた人物が彼女を麦の下に匿ったそうだ。異教徒たちが来て彼に「おまえは手に刀を帯びた女一人を見なかったか?」と問いただしたところ、その人物は「いいえ、見ておりません」といっった。異教徒たちが麦の下を検めようとしたので、その麦刈りをしていた人物は「アッラーは偉大なり!」といってその異教徒の頭を叩き割った。そこでそれ以外の異教徒たちはその人物を殺害してしまった。そしてその人物をそこに埋葬したそうである。そういうわけでその人物もブウィ・マリヤム・ヘニムとともにジハードをなした人物に勘定されるのである。

B04. ブウィ・マリヤム・ヘニムは池に身投げをして自殺した。それで麦を刈る前に「やあ、メットサライ・オルマゴジャム」と言って麦を刈る習慣が出来上がったのである[4]。



C.ホジャ・ペキル(Khoja Päqir)の伝承
2005年8月20日、アクトゥ県ピラル・イェザ、第1大隊第5小隊。以前の名前はサイイドレル(Säyyidlär)。
インフォマント:Mansur Habibulla Shäykh(85)


Mansur Habibulla Shäykh(85)

C01. マザールの名はゴジャ・ペキル・ゴジャム。母の面倒を見て貧困にすごした人物である。1日行程の遠隔地からヤンタク(沙漠中に生える棘のある木)を伐採して(それを生業として)、食事を作って母の面倒を見た。若干名の友人がブハラに行って勉強してこようと言ったところ、この人物は「私は行かない。母の面倒を見るのだ」といって行かずに母の面倒を見たのだった。ブハラに行ったものたちは何者にもならなかったが、この人物は母の面倒を見たことのために聖者の位階に達したのだ。

C02. 私の名前はマンスール・シャイフ。今年85歳になる。父の名はハビブッラー。我々は先祖代々オルダハン・パーディシャーのシャイフを勤めている。

C03. ここに葬られた人は我々の先祖に当たる。
(祈祷)……ホジャ・ペキル・ホジャム、オルダハニム、ハズレティ・ベギム、サワービディン・ドスト・ブラキム, ハズレティ・アッパク・ホジャム、サイイド・アリー・アルスラン・ハン、オスマン・ブグラ・ハン、イマーム・ジャーパル・サーディク、キリチ・ブグラ・ハン、イマームリリム、ハズレティ・モッラーム、ヌール・エラヌル・ヘニム、神よ、私は汝を祈求します。苦痛をお引き受けくださる神よ.. 99000の聖地、124000の預言者について….アッラーは偉大なり、アーミン。

C04. このマザールで横たわる人物は、このマハッラにあるメスジドのイマームであった。我々のこのふるさとにある川に以前洪水が来たとき、誰も川を渡ることができなかった。そのときこのイマームは弱弱しいロバに乗って洪水が来た川を杖で渡ってしまったのだ。

C05. それを見ていた40 頭のラバをもつ商人たちは「あのアホンはロバで渡ってしまったぞ。我々の馬はもっと上等なのだから何で渡れないことがあるだろうか」と言ってやっきになって渡ろうとした。すべてのものが川に飲み込まれてしまった。イマーム・アホンが金曜礼拝から戻ってきたところ、何とか助かった一人が来て、そのイマームに助けを求めた。すると商人たちのすべての商品・財産は救われた。

C06. イマームは彼らに「他に何かないものはあるか?」と問いただしたところ、商人たちが見るとひとつ轡(くつわ)がないので、「轡がなくなりました」と言った。そこで商人たちは轡も取り戻すことができた。

C07. この(現在の)マザールを建てて58年になった。(このマザールは)もともとは柵がしつらえてあった。文化大革命でいくつかの邪心を持つものたちが「この柵を誰が壊そう」と言って、2人が出てこれを壊した。後にこの2人は悪い病気になって死んだ。彼らはこのマザールに来て7回周回して後悔しても治らなかったのだ。なぜなら、放った矢は返ってこないではないか。

C08. 当マザールへの参詣にはオパル、タシュマリク、ハンエリク、ヤプチャン、ウジュマ、チャギルなどから男女が願掛けに来る。週に4-5人来る。イードの際にはやや多めに来る。

C09. この(墓の)2つのうち大きい方を私は知っているが、小さいほうは知らない。これを修建してから15年ほどになる。個人がこの修理を行った。患ったある若者がなかなか治らないのでこの地に生贄を捧げて祈祷をしたら治った。その人物が建てさせたのだ。マザールに関連する証文のようなものはない。



D.イマームリリム(Imamlirim)墓の伝承
2005年8月23日、疏附県オパル郷にて聴取。
インフォマント: Yasin Ibrahim Akhun Shäykh(73)


Yasin Ibrahim Akhun Shäykh(73)

D01. 私はここの6代目のシャイフである。名前はヤスィン・アホン。今年73歳になる。1代目はユスプ・シェイフ、2代目はパルタ・シェイフ、3代目はニヤズ・シェイフ、4代目はヤンタク・シェイフ、5代目はトフティ・シェイフ、6代目はイブラヒム・シェイフ。

D02. (被葬者の)一人の名はイマーム・マリク・エジュデル、もう一人はイマーム・マリク・エスケルである。

D03. [このグンバズは]私が小さいころからある。上(屋根?)は2度建て替えられた。この上をアギチャ・ヘニムという外国から来たウイグル人女性が建てた。それは私が8歳のころだ(=1940年ごろ)。

D04. マフムート・カシュガリー・マザールがある山の上で一頭の竜が暮らしていた。竜は毎日一人の子供を食べていた。そんなころマフムート・カシュガリーはこの2人の子供の先生であった。彼らが勉強しているときにマフムート・カシュガリーは彼らに回り道をして来るようにと命令した。

D05. 彼らは分かれて12大隊であるマザールがある。キリチ・ブグラ・ハンという。その周囲を周回して進むと、一人が立って歌を歌った。立って泣いた声が聞こえた。彼から「お前の泣く理由は何か、笑う理由は何か」と質問した。その子供は「わたしのひとりの未亡人の母がある。竜が食べる順番が私に来た。母の少し農作業の仕事がある。私が死んでしまったらわが母はそれをすることができない。だから私が母の仕事をすることを嬉しく思い歌を歌っていたのだ、(一方で)若いうちに死んでしまうことを感じて嘆いていたのだ」と言った。

D06. この2人は帰ってマフムート・カシュガリーの傍らに行ってこの状況を言った。(そこで)マフムート・カシュガリーはこの竜を滅ぼすことにした。イマーム・マリク・エジュデルなる人は竜を滅ぼすために刀を左右に縛って赴いた。竜がこの人物を飲み込んでしまおうとした時、刀は竜を貫き竜は死んだ。

D07. しかしイマーム・マリクに竜の毒が貫通してしまった。人々は彼に青い乳牛のミルクが毒には効く、とミルクをやった。しかしそのミルクに水を混ぜて与えたためにミルクは効果を与えずイマーム・マリクは死んでしまった。

D08. さらにもう一人のイマームがイマーム・マリクを持ち上げてこの地に来たときに死んでしまった。そこでこれら2人をこの地に埋葬した。

D09. ひとつ、キリチ・ブグラ・ハンの墓が残った。ジュマー、そして2つのイード礼拝で、また葬礼の際に人はここに来る。ほかのときに人は来ない[5]。




[1]例えば新疆のマザール研究者であるラヒラ・ダウト(Rahilä Dawut)はその著書『ウイグルのマザール(Uyghur Mazarliri)』において、新疆地域社会で比較的著名な聖地80あまりを紹介しているが、それら代表的な聖地のうちで、伝承が写本史料の形で今日に伝えられているものは筆者の知る範囲ではサトゥク・ブグラ・ハン、アーファーク・ホージャ、ホージャ・ムハンマド・シャリーフなど10座足らずに過ぎない。

[2]新疆では「解放」後、口承文学の組織的収集と出版が推進され、文化大革命終了後の1980年代以降は比較的多数の口承文芸テキストが出版された。先ごろウルムチで刊行された『ウイグル民間文学大典(Uyghur Khälq Eghiz Ädäbiyati Qamusi, 12-tom, Ürümchi: Shinjang Khälq Näshriyati, 2006)』はまさにその集大成であると言える。しかし、それら一連の出版物において、聖地伝承の類はほぼ欠落している。例外はカシュガル地区オパルのマフムート・カシュガリー墓ことハズレティ・モッラーム墓であって、墓廟の「発見」とその認定に係るプロセスで収集された伝承が公刊されている(Mähmut Qäshqäri: pp.42-70)。

[3]地名はダフビィド(Dahbid / Dehbīd)の誤りか。ダフビィドはサマルカンド近郊に位置し、カシュガル・ホージャ家の始祖とされるマフドゥミ・アーザム(Makhdūm-i A‘zam)の墓所がある土地として知られ、カシュガル・ホージャ家関連の伝説にはたびたび登場する(Shaw-Elias: p.34, 38; Hartmann: p.205-206, 216, 313, 332)。

[4]当聖地については、筆者に先行して1997年に新免康が調査を行っており、その報告はこの伝承ならびに聖地自体の詳細な状況を理解するうえで大変参考になる(新免・真田・王: pp.190-192)。

[5]この聖地伝承は同じくオパルにあるハズレティ・モッラーム墓(マフムート・カシュガリー墓)に伝わる伝承ときわめて似通っている(新免・真田・王: p.155-162)。オパルには10数座の聖地が存在し、それらはオパル・バザールをあたかも「包囲」するように四方に分布していると言い(Mähmut Qäshqäri: pp.47)、あるいは共通の伝承に基づいたひとつの「聖域」としてオパルを総体として考えることが可能かもしれない。その具体的な検討は今後の課題としたい。


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