所  載 『アジ研ワールド・トレンド』2005年1号(アジア経済研究所)、12-15頁。
HTML版公開 2008年11月21日
最終更新 2008年11月21日

翻弄された文字文化

~現代ウイグル語の黄昏~




衝撃的なニュース

2004年3月、新疆・ウイグル人に関するあるニュースが世界をかけめぐった。このニュースは国際的には全く関心ももたれず、おそらくリアルタイムでは日本語で報道されることさえなかったが、世界各地に居住するウイグル人、そして新疆ウォッチャーにはこのうえない驚きを持って迎えられた大ニュースであった。

中国、ウイグル人学校に中国語を強制

ワシントン発(RFAウイグルサービス報道) 

中国政府は西北部新疆での徹底的な教育改革を計画している。それは約五十の少数民族学校を漢族学校に統合させ、ウイグル及び他の少数民族子弟に対する教育言語として漢語を無理強いしようとするものである。

政府系新聞「新疆日報」によれば、少数民族が多数を占めながらも貧しいこの地域の少数民族学校は、今後五年の間に漢族学校に統合されることになる。「中国共産党および地方政府は、少数民族学校の漢族学校への統合、少数民族学生と漢族学生の共学を決定した。教育は可能な限り漢語でなされるべきである」

(以下略。RFA2004年3月16日の報道"China Imposes Chinese Language on Uyghur Schools")。


現代ウイグル語を用いた教育の廃止と漢族学校への統合ーこれを聞いて「ああ、現代ウイグル語は学校教育でも使われていたのか」とはじめて知った人のほうがあるいは多いかもしれない。そう、これまでウイグル人は自分たちの母語で高等教育まで受けることができた。しかし、報道によれば、少なくとも大学をはじめとする各種高級学校は、今後五年間で完全に現代ウイグル語による授業を廃止することになるらしい。

現地で高等教育に携わるあるウイグル知識人の直話によれば、この動きは数年のうちに高級中学や小学校のレヴェルまで及ぶことになると言う。また、学校のみならず行政機関でも使用言語の漢語への一本化が進められており、従来各部署に配置が義務づけられていた現代ウイグル語と漢語の通訳官が次々と配置換え、あるいは解雇され始めているとも言う。無論、これらはまだ裏付けのない、噂の域を出ない話ではある。しかし、これまで自治区域内で漢語と同等の位置を占めていた現代ウイグル語が公用語の座から転落しつつあることは明白であり、それに対しウイグル人たちが一定の危機感なり不安感を有しているということは言えそうである。

一方、世界各地に居住する在外ウイグル人たちはこのニュース報道後、現代ウイグル語の存続に対する危機感を大々的に表明している。目下の動きに対し、それが中国の「文化帝国主義」的策動ではないか、漢族はウイグル民族文化を破壊するために、まず言語から手をつけた、などと在外ウイグル人たちは現下の状況にこの上ない憤りを表明し、危機感を募らせているのである。

在米ウイグル人協会の運営するウェブ・サイト「ウイグル情報局」では、「今日からあなた方はみな漢語を話し、書き、そして読む。ウイグル語を話すのは『分離主義者』だけである」という皮肉めいたキャプションつきの合成写真がトップページに掲げられてある。あの911以後、カウター・テロリズムの名のもとに中国政府は新疆・ウイグル人に対するさまざまな面での圧迫を強めていると言われる。この写真はそうした昨今の状況に対して、ウイグル人がウイグル語を読み書き、話すことがすなわち分離主義=反政府的な行動だと言うのか、と主張する異議申し立てであり、鮮烈な印象を見る者に与えるものである。

やや、枕が長くなってしまったが、実はウイグル人の言語をめぐる受難は今に始まったことではない。そもそも「ウイグル」という今日的な意味での「民族」が創出されたころ(それは同時に「現代ウイグル語」の策定とほぼ時間と場所を一にしている)から、彼らの文字言語は自分たちの意のままにならぬ道具として、彼らのリテラシー環境を翻弄し続けてきた、と言う見方も出来るのである。常に他者の都合によって翻弄され、いまや危機にたつ文字言語。ここではそういった視点から、今日に至る現代ウイグル語のあゆみをいま一度見直してみよう。



アラビア文字言語の「畸形」として

現代ウイグル文章語の誕生は1920年代前半に遡り、詳細は不明ながら、主としてソ連領(当時)に居住する「ウイグル人」のために、他の中央アジア・テュルク諸言語と同様に字母、正書法の大枠が策定されたことは確実である。そのスタイルは一風変わっており、それまでのかれらの文字文化(チャガタイ文章語)の伝統と明らかに一線を画すばかりか、アラビア文字言語の発展史の中でも例外的な、「畸形」とでも形容すべき独特の特徴を有していた。

まず字母について。周知のごとく、アラビア文字はイスラーム教徒の使用する文字として、コーランで用いられる正則アラビア語の字母を尊重し、他言語に拡張する場合は正則アラビア語の字母28文字をいわば核として、それに付加する形で文字を増やしていく発展のスタイルをとるのが一般的である。これはコーランを文字文化の中心にすえるイスラーム教徒としての立場からするならば至極当然なことであり、事実、他の「拡張」諸言語ー例えばペルシャ語、ウルドゥー語そしてジャウィーなどーはみなこのパターンを踏襲している。しかしながら現代ウイグル語は、ある意味実に「合理的」に、現代ウイグル語に音が存在しない文字をことごとく排除し、他の字母との統合を行っている。さらに正書法については、一般にアラビア文字使用言語において母音は長母音のみ表記して短母音は表記しないとされる。しかし現代ウイグル語では律儀にも短母音も長母音もすべて表記するように定められている。

これらの結果現代ウイグル語においては、正則アラビア語やペルシャ語に由来する借用語彙の綴りをも、すべて現代ウイグル語風に改変して表記することとなった。他の「拡張」諸言語では基本的に借用語の綴りは維持されており、お互いに言語を異にしていても同じ綴りの同じ語彙が多数用いられている。しかし現代ウイグル語はそうしたパターンを踏み外し、まったく他のアラビア文字使用言語との汎用性を欠くローカリゼーションを行っているのである。

こういったアラビア文字言語の「畸形」としての現代ウイグル語の誕生がいったいどういう議論を経て、どういう目的のもと実行に移されたのか。残念ながら現時点でそれを窺い知る情報を私は持っていない。しかし、この「畸形アラビア文字」の採用の結果、伝統的文字文化が部分的に改変を余儀なくされ、正則アラビア語(すなわちコーラン)や他言語の影響力の排除が促進されたということは指摘できるのではないか。これはさらに想像をたくましくするならば、無神論者のコムニストが「脱イスラーム」の民としての「ウイグル人」ならびに「現代ウイグル語」を思い描いていたのではないかという憶測も考えられないわけでもないのであるが、現時点でその証拠は無い。

「現代ウイグル語誕生」の結果として言えることがもう一つある。それは母音と子音をある程度律儀に書き出す(すなわち一対一での転写がある程度可能な)正書法を採用したことで、結果的にはラテン文字やキリル文字といった他の字母への転換を容易にする環境が整えられたということである。ソ連領のウイグル人は、この字母採用から程なく1920年代後半からラテン文字を使い始め、1940年代以降はキリル文字を採用し現在に至っている。すなわち、一見風変わりな「畸形アラビア文字」は、旧ソ連領の現代ウイグル語の文字発展史に限って見るならばあくまで過渡的なものであった。



新疆における文字の混乱

さて、ソ連領で開発された畸形アラビア文字を用いた現代ウイグル語正書法は「ウイグル」と言う民族名称と共に中国領に持ち込まれ、遅くとも1930年代には新疆でも使用が開始された。しかしそのスタイルは、前述の通り伝統的な文字文化とは明らかに異質なものであり、速やかに人々に受け入れられ、浸透していったとは考えにくい。当時住民レヴェルでカーディ(法官)認証のもと作成されていた契約文書などは1950年代まで古典的なチャガタイ文章語が用いられていた。また1930年代に一時的に「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立を見たカシュガルを中心とする南新疆の一角では、明らかに古典語の規範を下敷きにした独自の正書法が公式に使用され、教育・出版が行われていたのである。

新疆は1949年にいわゆる「和平解放」を迎え、中華人民共和国に編入されることとなった。周知の通り、解放後の数年中国は社会主義国家の先輩であるソ連と極めて良好な関係を取り結び、両国の「蜜月」時代が到来した。新疆はソ連の隣接地域として夥しい物資、技術の供与を受けることとなり、それに伴ってソ連の公用語であるロシア語の需要が高まった。そしておそらくはソ連領のキリル文字ウイグル語も同様に新疆に持ち込まれたものと考えられる。

1956年、新疆ウイグル自治区政府は公式に現代ウイグル語へのキリル文字導入を決定し、一部の学校では試験的にキリル文字の指導が始められた。中ソの「蜜月」関係の狭間にあって中国領の現代ウイグル語がキリル文字の導入を検討し始めたのは自然な成り行きであった。

しかし、同年ソ連でフルシチョフが行った「スターリン批判」と、それを契機に発生した「中ソ論争」により両国関係は急速に冷え込み、「蜜月関係」の解消と共に現代ウイグル語のキリル文字化の企てもあっさり解消されるに至る。その代わりに浮上したのがラテン文字への改革案であった。



ラテン文字導入の挫折

1959年、新疆ウイグル自治区文字改革委員会はラテン文字式の現代ウイグル語字母を考案し、従来のアラビア文字(=「老文字(コナ・イェズィク)」)からの転換を決定した。この文字は「新文字(イェンギ・イェズィク)」と呼ばれ、その二年前に公布された漢語のラテン文字表記法(ピンイン)に倣ったものであった。

キリル文字が駄目になったからラテン文字にするというのは一見安直な感じがするかもしれない。またなぜアラビア文字(老文字)に復するという方向が出てこなかったのかという考え方もあるだろう。しかし、もしも当時の現代ウイグル語正書法の策定者たちが、(結果としてそうなったソ連の例のように)「老文字」をあくまで「過渡的なもの」と認識していたのであれば、キリル文字導入が挫折したとなればラテン文字の導入を検討するのは次善の策として十分考えられることである。

中ソ論争ならびに当時混迷を極めた中国の国内状況を反映して、このラテン文字導入は遅々として進まず、その使用が公式に公布・施行されたのはようやく1965年のことであった。さらに翌年から勃発したプロレタリア文化大革命により中国全土は混乱に陥り、ラテン文字の普及は徹底されなかった。新疆政府がラテン文字を普及させるべくアラビア文字公式使用の廃止を実施したのは文革が終了する1976年のことである。しかし、この措置はウイグル人の守旧派の反発を受け、結局三年で撤回され、1982年にアラビア文字は全面的に復活、使用されることが公式に定められた。ソ連領では過渡的な存在に終わった畸形アラビア文字はここに完全復活を果たし、同時にラテン文字導入の試みは挫折したのである。


1980年代「ルネサンス」の影に

文化大革命が終結し、いわゆる「歴史決議」によって文革への反省が公式に表明されて以後の1980年代の一時期はウイグル人にとり「ルネサンス(文芸復興)」と呼ぶに相応しい時期であった。『ブラク(源泉)』『ミラス(遺産)』『タリム』といった新疆全国区の文芸雑誌が多数出版され、地方レヴェルの雑誌も発刊が相次いだ。政府の主導で「ウイグル文化」のマスターピース(あるいはステレオタイプ)とも呼ぶべきカーシュガリーの『トルコ語集成』、ユースフの『幸福の智慧』そして『ウイグル十二ムカム』等のテキスト出版を核として古典作品、歴史小説、文学作品、文史資料の出版が相次いだ。それら著作の中には現在にして思えば何憚ることなくウイグルの自主性、独立性を謳いあげたものが少なくなく、実に自由な空気に満ち溢れていたものであった。

しかしその一方で、この時期はウイグル人のリテラシーをめぐる諸問題が顕在化し、ウイグル人社会の中でその問題が真剣に考えられた時期でもあった。すなわち、度重なる正書法の変革の結果、アラビア文字を十分に読み書くことの出来ないウイグル人が多数生み出された。特に文化大革命中に学生であった世代の一部はラテン文字ウイグル語の教育を受けていたため、教育程度が低くないにもかかわらず「民族語」では文盲同様の立場に置かれることとなったのである。加えて、改革・開放政策のもと経済発展を続ける中国にあって、漢語は社会的・経済的成功のため不可欠の要素である。そのため子弟を初等教育から民族学校ではなく漢族の学校で学ばせる(「民考漢」)風潮も増加していった。文革終了後の「ルネサンス」期は、同時にウイグル人の現代ウイグル語離れが水面下で進行していった時期でもあり、それは二十世紀にウイグル文字文化が被った災いの一つの帰結に他ならなかった。



二十一世紀へ

1980年代の「ルネサンス」はやがて90年代初頭に噴出した『ウイグル人』問題やバリン郷事件といった、ウイグル人の分離主義的な動きとそれに対する当局の弾圧の顕在化を見て輝きを失い、90年代後半からは一部歴史小説の発禁や公開での焚書事件が相次ぐに至って終焉を迎えた。そして合衆国の同時多発テロ(911)以後は、冒頭に述べたように、テロ撲滅の号令の下にウイグル人は文化的にも、政治的にも、経済的にも、さまざまな圧迫にさらされているように見える。先に示した写真が語るように、テロと無関係であることの証が自らの母語を放棄して、漢語を話すことであるかのような空気は確かに存在している。

後世、二十世紀はウイグル人にとってはチュルク語から漢語への言語移行の過渡期と捉えられ、そして畸形アラビア文字を用いた「現代ウイグル語」はその過渡期のいわば仇花とみなされるのではなかろうかーそういう予見は楽しいものではない。しかし、新疆で今展開されつつある一連の「脱ウイグル」化(漢化)への流れはもはや誰にも止められぬようにも見える。在外ウイグル人は猛烈な反発を見せるであろう。また、心あるウイグル人の友人たちはこれに心を痛めるだろう。しかし、その流れを最終的に決めるのは他でもない、いま新疆で日々を暮らすウイグル人自身である。「言語文化」は物質的な繁栄を犠牲にしても守るべきものなのか。命を賭して戦って勝ち取るべきものなのか。すべては彼らが最後に選び取るべきものである。

二十世紀、彼らの文字文化は明らかに歴史の大きな波の中で翻弄され続けた。この二十一世紀が彼らにとりどのような世紀になるのか。願わくばそれが彼らに取り幸いなものとならんことを祈るのみである。

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